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Channel: 内田樹の研究室
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参院選の総括

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朝日新聞の本日のオピニオン欄に参院選の総括を寄稿した。
日曜の夜の開票速報を見てから、月曜の朝起きて必死に4000字。
時間がなかったので、掘り下げが浅いけれど、それはご容赦頂きたい。
もう朝日のウェブでも公開されているので、ブログでも公開。


参院選の結果をどう解釈するか、テレビで選挙速報を見ながらずっと考えていた。
最近の選挙速報は午後8時ぴったりに、開票率0%ではやばやと当確が打たれてしまう。角を曲がったところで出合い頭に選挙結果と正面衝突したような感じで、一瞬面食らう。日曜の夜もそんな気分だった。
とりあえず私たちの前には二つの選択肢がある。「簡単な解釈」(これまで起きたことが今度もまた起きた)と「複雑な解釈」(前代未聞のことが起きた)の二つである。
メディアは「こうなることは想定内だった」「既知のことがまた繰り返された」という解釈を採りたがる。それを聴いて、人々はすこし安心する。「明日も『昨日の続き』なのだ」と思えるからである。「うんざりだ」とか「やれやれ」という言葉は表面上の不機嫌とは裏腹に、内心にひそやかな安心を蔵している。「何も新しいことは起きていない」という認知は生物にとっては十分に喜ばしいことだからだ。
だが、システマティックに「やれやれ」的対応を採り続けた場合、私たちは「安心」の代価として、「想定外の事態」に対応できないというリスクを抱え込むことになる。そういう場合に備えて、「私たちは今想定外の局面に突入しており、日本人は(政治家も学者もメディアも含めて)今何が起きつつあるのかをあまりよく理解していない」という仮説を立てる人間が少数ではあれ必要だろうと思う。別に全員が「複雑な解釈」にかまける必要はない。だが、リスクヘッジのためには、少人数でも「みんなが見張っていない方向」に歩哨に立てておく方がいい(それに、どうせボランティアだ)。

今回の参院選の結果の際立った特徴は「自民党の大勝」と「共産党の躍進」である(それに「公明党の堅調」を加えてもいい)。
この3党には共通点がある。
いずれも「綱領的・組織的に統一性の高い政党」だということである。「あるべき国のかたち、とるべき政策」についての揺るがぬ信念(のようなもの)によって政治組織が統御されていて、党内での異論や分裂が抑制されている政党を今回有権者たちは選んだ。私はそう見る。
それは民主党と維新の会を支持しがたい理由としてかつての支持者たちが挙げた言葉が「党内が分裂気味で、綱領的・組織的統一性がない」ことであったこととも平仄が合っている。つまり、今回の参院選について、有権者は「一枚岩」政党を選好したのである。
「当然ではないか」と言う人がいるかもしれないが、これは決して当然の話ではない。議会制民主主義というのは、さまざまな政党政治勢力がそれぞれ異なる主義主張を訴え合い、それをすり合わせて、「落としどころ」に収めるという調整システムのことである。「落としどころ」というのは、言い換えると、全員が同じように不満であるソリューション(結論)のことである。誰も満足しない解を得るためにながながと議論する政体、それが民主制である。
そのような非効率的な政体が歴史の風雪を経て、さしあたり「よりましなもの」とされるにはそれなりの理由がある。近代の歴史は「単一政党の政策を100%実現した政権」よりも「さまざまな政党がいずれも不満顔であるような妥協案を採択してきた政権」の方が大きな災厄をもたらさなかったと教えているからである。知られる限りの粛清や強制収容所はすべて「ある政党の綱領が100%実現された」場合に現実化した。
チャーチルの「民主制は最悪の政治形態である。これまでに試みられてきた他のあらゆる政治形態を除けば」という皮肉な言明を私は「民主制は国を滅ぼす場合でも効率が悪い(それゆえ、効率よく国を滅ぼすことができる他の政体より望ましい)」と控えめに解釈する。政治システムは「よいこと」をてきぱきと進めるためにではなく、むしろ「悪いこと」が手際よく行われないように設計されるべきだという先人の知恵を私は重んじる。だが、この意見に同意してくれる人は現代日本ではきわめて少数であろう。
現に、今回の参院選では「ねじれの解消」という言葉がメディアで執拗に繰り返された。それは「ねじれ」が異常事態であり、それはただちに「解消されるべきである」という予断なしでは成り立たない言葉である。だが、そもそもなぜ衆参二院が存在するかと言えば、それは一度の選挙で「風に乗って」多数派を形成した政党の「暴走」を抑制するためなのである。選挙制度の違う二院が併存し、それぞれが法律の適否について下す判断に「ずれ」があるようにわざわざ仕立てたのは、一党の一時的な決定で国のかたちが大きく変わらないようにするための備えである。言うならば、「ねじれ」は二院制の本質であり、ものごとが簡単に決まらないことこそが二院制の「手柄」なのである。
 その法律が国民生活を守るために絶対に必要なものだと信じているなら、発議した政党は情理を尽くして野党を説き、できる限りの譲歩を行い、取引材料を駆使して、それを可決しようとするだろう。その冗長な合意形成プロセスの過程で、「ほんとうに必要な法律」と「それほどでもない法律」がふるいにかけられる。二院制はそのためのシステムである。だからもし二院間に「ねじれ」があるせいで、与党発議の法律の採決が効率よく進まないことを端的に「よくないことだ」と言う人は二院制そのものが不要だと言っているに等しい。「参院廃止」という、政体の根本にかかわる主張を「ねじれの解消」という価値中立的(に見える)言葉で言い換えるのは、あまり誠実な態度ではあるまい。
 この「ねじれの解消」という文言もまた先の「綱領的・組織的に統一性の高い政党」への有権者の選好と同根のものだと私は思う。現在の自民党は派閥が弱体化し、長老の介入が制度的に阻止され、党内闘争が抑圧された「ねじれのない政党」になっている。公明党、共産党が鉄壁の「一枚岩」の政党であるのはご案内の通りである。おそらく日本人は今「そういうもの」を求めているのである。そして、「百家争鳴」型政党(かつての自民党や、しばらく前の民主党)から「均質的政党」へのこの選好の変化を私は「新しい傾向」だとみなすのである。
では、なぜ日本人はそのような統一性の高い組織体に魅力を感じるようになったのか。それは人々が「スピード」と「効率」と「コストパフォーマンス」を政治に過剰に求めるようになったからだ、というのが私の仮説である。
採択された政策が適切であったかどうかはかなり時間が経たないとわからないが、法律が採決されるまでの時間は今ここで数値的に計測可能である。だから、人々は未来における国益の達成を待つよりも、今ここで可視化された「決断の速さ」の方に高い政治的価値を置くようになったのである。「決められる政治」とか「スピード感」とか「効率化」という、政策の内容と無関係の語が政治過程でのメリットとして語られるようになったのは私の知る限りこの数年のことである。そして、今回の参院選の結果は、このような有権者の時間意識の変化をはっきりと映し出している。
私はこの時間意識の変化を経済のグローバル化が政治過程に浸入してきたことの必然的帰結だと考えている。政治過程に企業経営と同じ感覚が持ち込まれたのである。
国民国家はおよそ孫子までの3代、「寿命百年」の生物を基準としておのれのふるまいの適否を判断する。「国家百年の計」とはそのことである。一方、株式会社の平均寿命ははるかに短い。今ある会社で20年後に存在するものがいくつあるかは、すでに私たちの想像の埒外である。だが、経営者はその短命生物の寿命を基準にして企業活動の適否を判断する。
「短期的には持ち出しだが、長期的に見れば孫子の代に見返りがある」という政策は、国民国家にとっては十分な適切性を持っているが、株式会社にとってはそうではない。企業活動は今期赤字を出せば、株価が下がって、資金繰りに窮して、倒産のリスクに直面するという持ち時間制限のきびしいゲームである。「100年後には大きな利益をもたらす可能性があるが、それまでは持ち出し」というプロジェクトに投資するビジネスマンはどこにもいない。
学術研究でも話は変わらない。「すぐには結果を出せないが、長期的には『大化け』する可能性があるプロジェクト」には今は科学研究費補助金もおりないし、外部資金も手当てがつかない。研究への投資を回収するまでのデッドラインが民間企業並みに短くなったのである。
その「短期決戦」「短命生物」型の時間感覚が政治過程にも入り込んできたというのが私の見立てである。
短期的には持ち出しだが100年後にその成果を孫子が享受できる(かも知れない)というような政策には今政治家は誰も興味を示さない。
原発の放射性廃棄物の処理コストがどれくらいかかるか試算は不能だが、それを支払うのは「孫子の代」なので、それについては考えない。年金制度は遠からず破綻するが、それで困るのは「孫子の代」なので、それについては考えない。TPPで農業が壊滅すると食糧調達と食文化の維持は困難になるが、それで苦しむのは「孫子の代」なので、それについては考えない。
目先の金がなにより大事なのだ。
「経済最優先」と参院選では候補者たちは誰もがそう言い立てたが、それは平たく言えば「未来の豊かさより、今の金」ということである。今ここで干上がったら、未来もくそもないというやぶれかぶれの本音である。
だが、日本人が未来の見通しについてここまでシニカルになったのは歴史上はじめてのことである。
それがグローバル化して、過剰に流動的になった世界がその住人に求める適応の形態である以上、日本人だけが未来に対してシニカルになっているわけではないにしても、その「病識」があまりに足りないことに私は懸念を抱くのである。
古人はこのような未来を軽んじる時間意識のありようを「朝三暮四」と呼んだ。
私たちが忘れてはならないのは、「朝三暮四」の決定に際して、猿たちは一斉に、即答した、ということである。
政策決定プロセスがスピーディーで一枚岩であることは、それが正しい解を導くことと論理的につながりがないということを荘子は教えている。


『風立ちぬ』

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宮崎駿の新作『風立ちぬ』を観てきた。
宮崎駿は「どういう映画」を作ろうとしたのだろう。
もちろん、フィルムメーカーに向かって、「どういう映画を作りたいのですか?」とか「この映画を通じて何を伝えたいのですか?」というような質問をするのは意味のないことである(「言葉ですらすら言えるくらいなら映画なんか手間暇かけて作りませんよ」という答えが返ってくるに決まっている)。
でも、映画の感想を述べる立場からすると、このような問いを自問自答してみるというのは、決して無意味なことではない。
映画というのは、それについて語られた無数の言葉を「込み」で成り立っているものだからだ。
お門違いなものであれ、正鵠を射たものであれ、「それについて語る言葉」が多ければ多いほど、多様であればあるほど、賛否いずれにせよ解釈や評価が一つにまとまらないものであるほど、作品としては出来がよい。
私はそう判断することにしている。
「それについて語らずにいられない」という印象を残すのは間違いなくよい映画である。
それはその反対の映画を想像すればよくわかる。
よい映画の対極にあるのは「その映画を観たことをできるだけ早く忘れたくなる映画」ではない。「その映画を観たことを忘れるためにいかなる努力も要さない映画」である。
小津安二郎の映画や、ジョン・ウォーターズの映画や、デヴィッド・リンチの映画を観たあと、私たちはじっと黙っていることができない。
何か言わずにいられない。
とりあえず何か言っておかないと、自分が何を観たのかわからないまま宙づりにされていて、気持ちが片づかないのである。
何かを言っても、それで映画を説明したことには少しもならないのだが、それでも、とりあえず一言でも言っておかないと気が済まない。
そのあと自分がその映画についてもう一度語るときに「取りつく島」がない。
その「取りつく島」をあとになって「あれは勘違いだった」と否認しても少しも構わない。
とりあえず、それを否認することで、その映画について私たちは二度語るチャンスを手に入れるからである。
「取りつく島」はひとりひとり違っている。
ある映画について語っているときに、あの場面、あの台詞が忘れられない・・・とひとりひとりが思い出す場面がすべて違うような映画はよい映画である。
その点で、映画批評は「通夜の客の思い出話」に似ている。
通夜の席で参列者ひとりひとりが語る故人の思い出はそれぞれにばらばらである。
ある人が「忘れがたい思い出」として語り出す故人の言葉やふるまいは、しばしば他の誰も知らなかったものである。
全員がまったく別々の思い出を語り、そのせいで、故人の全体像が混沌としてくるような死者がいたとしたら、その死者はずいぶん人間として厚みと奥行きのある人だったのだろうと私は思う。
映画についても同じである。
以下は私の「取りつく島」である。
せっかく語る以上は「他の人が言いそうもないこと」を書こうと思う。
他の人がまず言いそうもないこと、同意してくれそう人があまりいそうもない話なのだから、それが「解釈として正しい」ということはありえない。
でも、それでよいのである。
別に私は「正しい解釈」を述べたいわけではないからだ。
石蹴りをする子どもが最初の石をできるだけ遠くに蹴り飛ばすように、できるだけ遠くまで解釈の射程を拡げてみたい。

『風立ちぬ』にはさまざまな映画的断片がちりばめられている。
それのどれかが決定的な「主題」であるということはないと思う。
むしろ、プロットがその上に展開する「地」の部分を丹念に描き込むことに宮崎駿は持つ限りの技術を捧げたのではないだろうか。
「地」というのは「図」の後ろに引き下がって、主題的に前景化しないものである。
宮崎駿が描きたかったのは、この「前景化しないもの」ではないかというのが私の仮説である。
物語としては前景化しないにもかかわらず、ある時代とその時代に生きた人々がまるごと呼吸し、全身で享受していたもの。
それは「戦前の日本の風土と、人々がその中で生きていた時間」である。
宮崎が描きたかったのは、私たち現代人がもう感知することのできない、あのゆったりとした「時間の流れ」そのものではなかったのか。
映画は明治末年の群馬県の農村の風景から始まって、関東大震災復興後の深川、三菱重工業の名古屋の社屋と工場、二郎たちが離れに住む黒川課長の旧家、各務原飛行場、二郎と菜緒子が出会う軽井沢村、八ヶ岳山麓の富士見高原療養所・・・を次々と細密に描き出す。
そのどれを見ても、私たちはため息をつかずにはいられない。
そうだ、日本はかつてこのように美しい国だったのだ。人々はこのようにゆったりと語っていたのだ。
それらの風景のひとつひとつを図像的に再生するとき、宮崎はアニメーターたちに例外的なまでの精密さを要求した。
自作自注の中で宮崎は風景についてこう書いている。
「大正から昭和前期にかけて、みどりの多い日本の風土を最大限美しく描きたい。空はまだ濁らず白雲生じ、水は澄み、田園にはゴミひとつ落ちていなかった。一方、町はまずしかった。建築物についてセピアにくすませたくない、モダニズムの東アジア的色彩の氾濫をあえてする。道はでこぼこ、看板は無秩序に立ちならび、木の電柱が乱立している。」(http://kazetachinu.jp/message.html
「みどりの多い日本の風土」こそは、私たちが近代化することで(とりわけ戦争に負けたことによって)決定的に失ったものの一つである。
でも、厳密に言うと、私たちは「風土そのもの」を失ったわけではない。
国破れて山河あり。里山の風景は戦争に負けてもそれほどには傷つかなかった。
けれども、深く傷つけられたものがある。
それはそのような「みどりの多い日本の風土」の中でゆったりと生きていた日本人たちの生活時間である。
人々はかつてこの風土に生きる植物が成長し、繁茂し、枯死してゆく時間を基準にしておのれの生活時間を律していた。
植物的な時間に準拠して、それを度量衡に、人々は生活時間を数え、ものの価値を量り、ふるまいの適否を判断した。
でも、戦争が終わったときに、日本人はその生活時間を決定的なしかたで失っていた。
日本人は1945年にある種の「時間の数え方」を亡くした自分を発見したのである。
それは一度なくしたら、もう取り返すことのできないものだった。
農村の上空を飛翔する飛行機の風にゆらぐ稲や、軽井沢に吹き渡る風にゆらぐ草を宮崎は恐るべき精密さを以て描いた。
どうして、「風が吹く」ということを示すためだけに、ここまでの労力をかけるのか、怪訝に思う人がいるだろう(私は思った)。
「風が吹く」ということを記号的に処理する方法はいくらでもある。
マンガなら、何本か斜線を引いて「ひゅー」と擬音を描き込めば、それで済ませることだってできる。
でも、宮崎はそれをしなかった。
「風が吹く」というひとつの自然現象を記号的に処理しないこと、かけられるだけの手間をかけてその自然現象を描写し、その風の肌触りを観客の身体に実際に感じさせること、その効果に宮崎駿はこだわった。
おそらく、それが「失われた時」を感知させる唯一の方法だと宮崎が信じたからだろう。
植物は、ただの記号でもないし、舞台装置でもない。
芽生え、育ち、生き、死ぬものである。
そのようなものとしての植物に身を添わせるようにして、かつて人々は生きていた。
植物的な時間。
これは宮崎駿の選好する主題の一つである。
『ナウシカ』の腐海の植物も、『ラピュタ』で天空の城を埋め尽くす樹木も、『もののけ姫』の森も、人間たちの生き死にとはまったく無縁な悠久の時間を生きていた。
かつて人々はそのようにゆったりと流れる植物的な時間と共に生きる術を知っていた。
その知恵が失われた。
私たちは時間とは、どの時代でも、地球上のどこでも、「私たちが今感じているような仕方で流れている」と信じて疑わない。
でも、そうではない。
時間は場所によって、時代によって、文化の違いによって、そのつど違う流れ方をする。
でも、そのことの実感は言葉ではうまく表すことができない。
宮崎駿はその作家的天才を以て、「少し前まで人々がその中で生きていたけれど、いつしか失われてしまった時間」を図像的に表象するという困難な課題に挑んだ。
大正から昭和前期の日本で流れていた、私たちが今知っているのとは違う時間の流れを図像的に表象すること。
その企てを支援するかのように、物語の副旋律として、映画の中には「時間の速度」にかかわる言葉が何度か出てくる。
それはいずれも「時間の流れが早くなっている」かあるいは「早めなければならない」という切迫感を語る。
二郎の妹加代は越中島から花川戸までの蒸気船から夕方の帝都を望んで「こんなに早く復興しているとは思わなかった」と言う。
同僚の本庄は欧米に大きなビハインドを負っているがゆえに、日本の航空技術は「二十年を五年で追いつかなければならない」と二郎に告げる。
そのときに本庄が引く「アキレスと亀」の喩え話について、二郎は「どうして亀の時間で生きてはいけないのか」とぼんやりとつぶやく。
物語の後半で、菜緒子の病状が悪化し、日本の戦況が悪化する中で、二郎は「僕たちにはもう時間が残されていないのです」と絞り出すように語る。
美しい飛行機を設計することを夢見た一人の青年が穏やかな少年時代から妻を失うまでの間に、最も大きく変わってしまったものは、何よりも時間の速度だった。
そして、まことに皮肉なことに、ゆったりとした時間の流れに身を浸し、その中で植物的時間を享受することをおそらく望んでいた青年は、その半生を航空テクノロジーに捧げることによって、「時間の流れを爆発的に速める」という人類史的事業に深く加担してしまったのである。
ゆるやかに大空を舞うように飛んでいた二郎の足踏みの「夢の飛行機」が、空気の壁を切り裂くように飛行する零戦に変容するまでの十数年の間に、彼は顕在的な夢を実現しつつ、彼自身の潜在的な夢を破壊していたのである。
宮崎は主人公の造形についてこう書いている。
「私達の主人公二郎が飛行機設計にたずさわった時代は、日本帝国が破滅にむかってつき進み、ついに崩壊する過程であった。しかし、この映画は戦争を糾弾しようというものではない。ゼロ戦の優秀さで日本の若者を鼓舞しようというものでもない。本当は民間機を作りたかったなどとかばう心算もない。」
そのように簡単に言葉にできることを述べたくて宮崎駿はわざわざ映画を作ったわけではない。
「映画でなければ表現できないこと」を描きたくて、宮崎はこの映画を作ったのだと私は思う。
「失われた時間」を求めて。
これは「風立ちぬ」という美しい詩編を残した詩人と奇しくも同年に生まれた別のフランス人の作家が自作のために撰した題名である。

日本のシンガポール化について

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「シンガポールに学べ」という論調をよく見かける。
今朝の毎日新聞にもそういう記事が出ていた。
こんな記事である。

シンガポールの高級住宅街に一人の米国人移民が暮らす。ジム・ロジャーズ氏(70)。かつてジョージ・ソロス氏と共にヘッジファンドを設立。10年間で4200%の運用成績を上げたとされる伝説的投資家だ。市場は今もその言動を追う。
「シンガポールは移民国家だからこそ、この40年、世界で最も成功した国となった。移民は国家に活力や知恵、資本をもたらす」。プールサイドで日課のフィットネスバイクをこぎながら熱弁をふるう。
シンガポールの人口531万人のうち4割弱が外国人。超富裕層から肉体労働者までさまざまな移民を積極的に受け入れる。少子化にもかかわらず人口は過去10年で100万人以上増えた。1人あたり国内総生産(GDP)は2012年は世界10位。5万ドルを超え、日本をしのぐ経済成長を遂げる。「外国人嫌いなのは分かるが、日本もシンガポールを見習うべきだ」と話す。
(・・・)
シンガポールは人口の75%を中国系が占める華人国家だ。10年の経済成長率は14・7%と1965年の建国以来、最高を記録し、ロジャーズ氏の見立て通りに発展しているかに見える。国別対外投資額で中国はトップ。人民元決済を始め、対中貿易・投資の拠点として足場を固める。移民受け入れを拡大し、2030年に人口690万人を目指す。」

連載記事であるから、明日以降シンガポールの「とてつもない欠陥」に論及されて「やっぱりシンガポールはダメだよね」という結論になるのかも知れないが、今のところある種の人々(超富裕層)からは「世界で最も成功した国」とみなされていて、他の国も競って「シンガポールみたいになるように」というアピールだけが紹介されている。
実際に日本人でも「シンガポールに学べ」ということを言う人たちはけっこう多い。
そういう人たちの中で「シンガポールは経済的な活力を得る代価としてこれだけのものを『失っている』」という損益対照表を作成して、その上で「それでも、差し引き勘定すると、日本のシステムよりシンガポールのシステムの方がすぐれている」と論じた人がいるだろうか。私は寡聞にして知らない。
ロジャースさんのような人たちは別に「他の国の人たち」の幸福を切望して「シンガポール化」を促しているわけではない。
そう思っている人がいたら、よほど善良な魂の持ち主である。
こういう人がある政策を薦めるのは「そうしてくれると、オレが儲かるから」である。それ以外の理由はない。
日本メディアのシンガポール関連記事はその経済的な成功や、英語教育のすばらしさや、激烈な成果主義・実力主義や、都市の清潔さについて報告するけれど、シンガポールがどういう政治体制の国であるかについては情報の開示を惜しむ傾向にある。
だから、平均的日本人はほとんどシンガポールの「実情」を知らない。
シンガポールの「唯一最高の国家目標」は「経済発展」である。
平たく言えば「金儲け」である。
これが国是なのである。それがthe only and supreme objective of the State なのである。
政治過程や文化活動などはすべて「経済発展」の手段とみなされている。
だから、この国には政府批判というものが存在しない。
国会はあるが、ほぼ全議席を与党の人民行動党が占有している。1968年から81年までは全議席占有、81年にはじめて野党が1議席を得た。2011年の総選挙で人民行動党81に対し野党が6議席を取った。この数字は人民行動党にとっては「歴史的敗北」とみなされ、リー・クアンユーはこの責任を取って院政から退いた。
労働組合は事実上活動存在しない(政府公認の組合のみスト権をもち、全労働者の賃金は政府が決定する)。大学入学希望者は政府から「危険思想の持ち主でない」という証明書の交付を受けなければならないので、学生運動も事実上存在しない。「国内治安法」があって逮捕令状なしに逮捕し、ほぼ無期限に拘留することができるので、政府批判勢力は組織的に排除される。えげつないことに野党候補者を当選させた選挙区に対しては徴税面や公共投資で「罰」が加えられる。新聞テレビラジオなどメディアはほぼすべてが政府系持ち株会社の支配下にある。リー・クアンユーの長男のシェンロンが今の首相、父とともにシンガポール政府投資公社を管理している。次男のリー・シェンヤンはシンガポール最大の通信企業シングテルのCEO。シンガポール航空やDBS銀行を傘下に収めるテマセク・ホールディングスはシェンロンの妻が社長。
李さん一族が政治権力も国富も独占的に私有しているという点では北朝鮮の金王朝のありかたと酷似している。
たしかにこんな国であれば、経済活動はきわめて効率的であるだろう。外交についても内政についても、社会福祉や医療や教育についても、政府の方針に反対する勢力がほとんど存在しないのだから。
李さん一家が決めたことがそのまま遅滞なく実施される。
上記のロジャースさんはきっと李さんファミリーの「ゲスト」くらいの格でシンガポールに滞在しておられるのだろうから、彼がシンガポールの政治経済のかたちが「オレ的には最高」と評価したとしても何の不思議もない。
日本を「シンガポール化する」というのは、端的には日本の政治制度を根本から革命して、この独裁的な統治形態(平たく言えば「王制」)を導入するということである。
シンガポールだって、中国だって、サウジアラビアだって、アラブ首長国連邦だって、60-70年代のアジア・アフリカの開発独裁だって、遠くは第三帝国だって、独裁制がしばしば劇的な経済成長をもたらすことは周知の事実である。
日本を「シンガポール化」したいと言っている人たちにしても、経済システムだけを「いいとこどり」して真似ることは難しいということは先刻ご存じなのである。
労働運動、学生運動はじめとするすべての反政府運動の抑圧とマスメディアの政府管理も併せて実現しなければ、効率的な経済発展は難しいことは彼らだってわかっているのである。
でも、それを口に出して言うと、さすがに角が立つので、今は口を噤んでいる。
そして、「日本のシンガポール化」について総論的に国民的合意がとりつけられたら、その後になってから「あ、『シンガポール化』という場合には、治安維持法の発令と、反政府運動の全面禁止はもちろんセットになっているわけですよ。何言ってるんですか。知らなかった?金もらうだけもらっておいて、いまさら『知らなかった』じゃ通らないですよ」と凄むつもりなのである。
実際に今の日本ではひそかに「シンガポール化」のための伏線設定が進行しているように私には見える。
最も顕著なのは「唯一最大の国家目標は経済発展であり、国家システムはそれに奉仕する限りにおいて有用である」という国家概念の転倒を模倣しようとしていることである。
シンガポールの場合は、民主主義や基本的人権の尊重といった国家の根幹にかかわるシステムに重大な瑕疵があることを官民ともに知りつつ「でも、経済発展しているんだから、まあいいか」とシニカルに言いつくろっている。
ある意味では合理的だし、ある意味では「官民共犯的」とも言える。
だが、日本の場合はそうではない。
「経済発展するために」という名目で統治システム上の矛盾や不合理をこれから作り出そうとしているのである。
憲法を改定し、国民主権を制限し、基本的人権を制約し、メディアを抑え込み、労働組合をつぶし、「危険思想」の持ち主をあらゆるセクターから閉め出し、「超富裕層」が権力も財貨も情報も文化資本も排他的に独占するシステムを、これから作為的に作り出そう賭しているのである。
「そうしないと、経済発展しないのですよ」というのが彼らの切り札である。
今日本のマスメディアはほとんどがこのコーラスに参加して、音域は違うけれど、同じ歌を歌っている。
いずれ日本人は「経済発展できるなら、統治のかたちなんかどうでもいい」と言い出すようになるだろう。
「金がなければ、人権なんかあっても仕方がない」「金がなければ、平和であっても仕方がない」というような言葉を吐き散らす人々がこれからぞろぞろと出てくるだろう。
いや、すでに出てきているか。

五輪招致について

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AERAの今週号にこんなことを書きました。

2020年の五輪開催都市を決めるIOCの総会が始まる。
最終候補に残ったのは東京、マドリード、イスタンブール。88年の名古屋以来、08年の大阪、16年東京と三度連続招致失敗の後の四度目の挑戦である。
安倍首相、猪瀬都知事は国内での招致機運を盛り上げようと懸命だが、私のまわりでは東京五輪が話題になることはほとんどない。
気分が盛り上がらない第一の理由は、福島原発の事故処理の見通しが立たない現状で、国際的な集客イベントを仕掛けることについて「ことの順序が違う」と感じているからである。
第二の理由は、招致派の人たちが五輪開催の経済波及効果の話しかしないからである。
東京に招致できたら「どれくらい儲かるか」という皮算用の話しかメディアからは聞こえてこない。
「国境を越えた相互理解と連帯」とか「日本の伝統文化や自然の美しさを海外からのお客さんたちにどう味わってもらうか」というようなのどかな話題は誰の口の端にも上らない。
個人的には、五輪の本質は「歓待」にあると私は思っている。
64年の東京五輪を前にしたときの高揚感を私は今でも記憶している。
当時の国民の気持ちは「敗戦の傷手からようやく立ち直り、世界中からの来客を諸手で歓待できるまでに豊かで平和な国になった日本を見て欲しい」というある意味「可憐」なものだった。
「五輪が来ればいくら儲かる」というようなことは(内心で思っていた人間はいただろうが)人前で公言することではなかった。
理想論かもしれないが、五輪は開催国の豊かさや政治力を誇示するためのものではなく、開催国民の文化的成熟度を示す機会であると私は思っている。
五輪招致国であることの資格は、何よりも「国籍も人種も宗教も超えて、世界中のアスリートとゲストが不安なく心穏やかに滞在のときを過ごせるような気づかいを示せること」である。だとしたら、日本の急務はばかでかいハコモノ作りより、原発事故処理への真剣な取り組みと東アジアの隣国との友好的な外交関係の確立だろう。
原発事故のことを忘れたがり、隣国を口汚く罵倒する人たちが政治の要路に立ち、ひたすら金儲けの算段に夢中になっている国に五輪招致の資格があるかどうか、それをまず胸に手を当てて考えてみた方がいい。

Natureから

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9月3日のNature のEditorialに福島原発からの汚染水漏洩への日本政府および東電の対応について、つよい不信感を表明する編集委員からのコメントが掲載された。
自然科学のジャーナルが一国の政府の政策についてここまできびしい言葉を連ねるのは例外的なことである。
東電と安倍政府がどれほど国際社会から信頼されていないか、私たちは知らされていない。
この『ネイチャー』の記事もこれまでの海外メディアの原発報道同様、日本のマスメディアからはほぼ組織的に無視されている。
汚染水の漏洩で海洋汚染が今も進行しているとき、世界の科学者の知恵を結集して対応策を講ずべきときに、日本政府は五輪招致と米軍のシリア攻撃への「理解をしめす」ことの方が優先順位の高い課題だと信じている。
五輪招致を成功させたければ、まず事故処理について日本政府は最大限の努力をもって取り組んでいるということを国際社会に理解してもらうのが筋だろう。
だが、招致委員長は「東京と福島は250キロも離れているので、心配ありません」という驚くべき発言を昨日ブエノスアイレスで行った。
海外の科学者たちが「福島の事故は対岸の火事ではない。私たち自身に切迫した問題だ」という危機意識を持って国際的な支援を申し出ているときに、東京の人間が「福島の事故は250キロ離れた『対岸の火事』ですから、五輪開催に心配ありません」と言い放っているのである。
怒りを通り越して、悲しみを感じる。

英語を読むのが面倒という読者のために『ネイチャー』の記事の抄訳を試みた。

破壊された福島の原子力発電所から漏洩している放射性物質を含んだ流出水は、1986年ウクライナでのチェルノブイリ・メルトダウン以後世界最大の原子力事故の終わりがまだ見通せないことをはっきりと思い出させた。
2011年3月に福島原発に被害を与えた地震と津波の後、この地域を除染するための努力は今後長期にわたるものとなり、技術的にも困難であり、かつとほうもない費用を要するものであることが明らかとなった。
そして今またこの仕事が原発のオーナー、東京電力にはもう担いきれないものであることがあらわになったのである。
日本政府は9月3日、東電から除染作業を引き継ぐ意向を示したが、介入は遅きに失した。
事故から2年半、東電は福島の三基の破壊された原子炉内の核燃料の保護措置についての問題の本質と深刻さを認識していないことを繰り返し露呈してきた。
毎日およそ40万リットルの水がロッドの過熱を防ぐために原子炉心に注水されている。汚染された水が原子炉基礎部に漏水し、コンクリートの裂け目を通じて地下水と近隣の海水に拡がっていることを東電が認めたのはごく最近になってからである。
東電以外の機関による放射能被曝の測定は難しく、私たちが懸念するのは、この放射能洩れが人間の健康、環境および食物の安全性にどのような影響をもたらすことになるのかが不明だということである。
問題はそれにとどまらない。使用済みの冷却水を保存している1000の貯蔵庫があり、これらは浄化システムによる処理を経ているにもかかわらずトリチウムやその他の有害な放射性核種を含んでいる。漏洩はこのシステムがいつ爆発するかわからない時限爆弾(laxly guarded time bomb)だということを明らかにした。
ゴムで封印されたパイプや貯蔵タンクが漏水を引き起こすことは誰でも知っていることである。東電が漏水を検知する定期点検を信頼していたというのは無責任とは言わぬまでも不注意のそしりは免れ得ない。(careless, if not irresponsible)
(・・・)
政府の過去の対応と情報政策から判断する限り、日本政府も、東電と同じく、この状況を制御し、パブリックに対して情報を開示する能力がもうないのではないかという疑念を抱かせる。(Given the government's past actions and information policies, one might doubt whether it would be any more competent than TEPCO at managing the situation and communicating it to the public)
週明けに、漏水しているタンク付近の放射線量は最初に報告された数値の18倍であることがわかった。漏水は当初ただの「異常」とされたが、のちに真性の危機(a genuine crisis)であることがわかったのである。
日本は国際的な専門家に支援のための助言を求めるべきときを迎えている。米国、ロシア、フランス、英国などは核エンジニアリング、除染および放射線の健康被害についてのノウハウを持っており、日本の役に立つはずである。
国際的な研究と除染のための連携はモニタリングと危機管理の有用性と有効性についての粉々に打ち砕かれた信頼(shattered public trust)を回復するための一助となるであろう。
漏水が最も大きな影響を及ぼすのは福島沖とそこから拡がる太平洋への影響である。この影響については精密なモニターがなされなければならない。
日米の科学者によって2010年と2011年に行われたアセスメントでは二つの重大な問題が答えられぬまま残った。どれだけの放射能が海洋に浸入しているのか?原発事故以後長い時間が経ったにも拘わらずいくつかの種において高いレベルの放射能が検知されているわけだが、問題の地域の魚介類の消費がいつ可能になるのか?漏水によって、これらの問いへの答えることが喫緊の課題となっている。
(・・・)
安倍晋三首相と彼の政府は科学研究支援を約束した。彼らには情報を集め、それを共有することを通じて世界中の研究者を激励し、支援する義務がある。チェルノブイリでは科学者たちは原発事故後に何が起きるかについて研究する機会を逸した。福島ではせめてそれだけでも成し遂げたい。

府教育長の通達について

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大阪でまた教育現場に「どんより」と暗雲が漂っている。
知らないうちにいつのまにか府教育長になっていた府立和泉高校の「口元校長」が「口元通達」を今度は府立学校全てに発令したのである。
まずは新聞記事から。

「大阪府教委が、入学式や卒業式で教職員が実際に君が代を起立斉唱しているか、管理職が目視で確認し、結果を報告するよう求める通知文を府立学校に出していたことが18日分かった。中原徹府教育長は府立高の校長時代、君が代斉唱時に教職員の口元の動きをチェックし、論議を呼んだ。今回も同様に口元を確認し、徹底を図る方針で、再び議論が起きる可能性がある。
通知は9月4日付。全ての府立高校138校に出され、支援学校全31校にも出す方針。秋入学・秋卒業を取り入れている一部学校で、9月に開かれる卒業式に間に合わせた。
通知文では、「公務に対する府民の信頼を維持する」ことを目的とし、入学式や卒業式での君が代斉唱の際の校長・准校長の職務として、「教職員の起立と斉唱をそれぞれ現認する。目視で教頭や事務長が行う」と明記。結果を文書で報告するよう求めた。
起立斉唱しているかの判断基準は「総合的に現認し、公務の信頼性を維持するため、十分な誠意ある態度をとっているかどうかで判断すべきだ」とした。判断が困難な場合は、詳細を報告し、府教委に相談するよう指示している。
大阪府は橋下徹知事時代の2011年6月、教職員に君が代の起立斉唱を義務付けた条例を制定。違反した場合は処分の対象とし、12年1月、府教委は各校長に起立斉唱を徹底させる通達を出した。同年3月、当時、府立和泉高(岸和田市)校長だった中原教育長が卒業式で、実際に教員が歌っているかどうか口の動きを教頭にチェックさせた。
中原教育長は今年4月、教育長に就任。起立斉唱については「公務員として公の秩序を維持し、誠意ある行動を取れるかどうかという観点で見ていきたい」と話していた。
今回の府教委の通知について、ある府立高校教頭は「そこまでしないといけないのかと、違和感を覚える」と話した。【深尾昭寛】(9月19日毎日新聞)

平川君がひとこと「病んでいる」とコメントしていたが、たしかにその通りだと思う。
大阪の教育行政は深く病んでいる。
いったい、この教育長は何を実現したくてこのような通知を発令しているのか。
私にはそれがわからない。
理由は「公務に対する府民の信頼性を維持する」ことだという。
式典における「君が代斉唱」がいったいどういう理路において「公務に対する府民の信頼性」を担保することになるのか、それがわからない。
教員に求められているのは何よりもまず「教育者としての信頼」である。
教育者としての資質の適否についてはさまざまな指標があるが、最終的には「子供たちの市民的成熟に資するところがあったかどうか」という結果によって判定するしかない。
これは30数年教壇にあったものの経験的実感である。
そして、経験から学んだのは、「こうすれば必ず子供たちは市民的に成熟する」という必勝の教育法は存在しないということであった。
あらゆる子供のうちにそれぞれ固有の豊かな資源が潜在している。それが、いつ、どういうきっかけで開花することになるのかはひとりひとり全員違い、かつ予測不能である。
だから、もっとも効率のよい教育方法は「さまざまな教育理念に基づいて、さまざまな教育プログラムを、さまざまな教育技術をもつさまざまな教員が実施すること」になるのである。
子供ができるだけ多様な「トリガー」に触れること。
迂遠だが、この「下手な鉄砲も数打ちゃ当たる」方式以上に効率の良い教育方法を私は知らない。
逆に、もっとも効率の悪い教育方法は「単一の教育理念に基づいて、標準化された教育プログラムを、定式化された教育技術をもつ、均質的な教員が実施すること」である。
この制度は、子供たちの数値的な序列化・格付けにはたいへん効率的であるが、それだけのことである。
子供たちを教育機関が恣意的に序列化してみせることと、子供たち自身のポテンシャルの開花の間には相関がない。
閉鎖集団の中での相対的な優劣を競わせ、勝者に報奨を敗者に処罰を与えるというのは、「キャロット&スティック(人参と鞭)」と呼ばれる教育戦略である。
この戦略の有効性をいまでも信じている人もいる。
私は信じない。
信じないというか、それが機能しないことを現場で思い知らされている。
閉じられた同学齢集団内部での相対的な優劣を競わせれば、子供たちはすぐに学力競争では、自分の学力が高いことと他人の学力が低いことは同義であることに気づく。
そして、ただちに自分の学力を上げることは困難だが、他人の学力を下げることは容易であることにも気づく。
その結果、子供たち全員が互いに互いの学習努力を妨害し、学習意欲を殺ぐことを教室における最優先の責務として行動するようになる。
現にそうなっている。
だが、いまだに数値的な序列化・格付けとそれによる報奨と処罰「だけ」が唯一有効な教育手段だと信じている人がたくさんいる(この府教育長もおそらくその一員であろう)。
そういう人間が教育行政を仕切っているところでは、子供たちの学力は劣化してゆく他ない。
教員たちも子供たちと同じやりかたで序列化される。
イエスマンが報奨され、反抗的な教員は処罰される。
大阪の教育現場はそういうことになっている。
その結果、ほとんど瓦解している教育現場に追い打ちをかけるように、この教育長は「鞭」を振り回してみせた。
彼はその「鞭」がどのようなプラスの教育効果をもたらすと思っているのか。
鞭を振り回すことでどのようにして瓦解しつつある教育現場を再生させ得ると信じているのか。
私はそれが知りたい。
教委と管理職と保護者からの査定のまなざしに怯えて、自尊感情を失い、創意工夫の機会を奪われている教員たちが、この「鞭」のおかげでどう活気を取り戻すことになるのか。
その理路が私にはわからない。
でも、教育長がこう問われてどう返事するかは、私にはわかる。
「そんな話をしているんじゃない」である。
問題は「公務に対する府民の信頼性を維持する」ことであり、ただ就業規則を遵守することを公務員に求めているだけで、教育効果の話なんかしているわけじゃない。
ここに問題の混乱がある。
公教育が存在するのは、子供たちの市民的成熟を支援するためである。
である以上、教育に関するあらゆる行動の適否は「それが子供たちの市民的成熟を支援することに利するかどうか」を最高基準に判定されなければならない。
私はそう考える。
具体的に考えて欲しい。
例えば、医療の目的は「病気や怪我の人間を適切に癒やすこと」である。
医療に関するあらゆる行動(医療政策から治療方法の選択に至るまで)はその基準に基づいて適否を判定されなければならない。
もし「医師に対する患者の信頼性を維持する」ために「出勤時に医療者全員が『ヒポクラテスの誓い』を唱和することを義務づけ、病院長は唱和しているかどうか口元の動きを現認し、唱和していない医療者を処罰する」ことを全医療機関に通達する当局者がいたら、みなさんはどう思うか。
バカだと思うだろう。
そして、その通達が患者たちの健康回復にどう結びつくのか、その理路を説明して欲しいと言うはずである。
そのとき、そう問われた当局者が「そんな話をしているんじゃない」と言ったら、あなたはどう思うか。
問題は「医師に対する患者の信頼性を維持する」ことであって、患者の健康の話をしているんじゃない、と言ったら、あなたはどう思うか。
たぶん、そういう人間にはできるだけ医療現場には近づいて欲しくないと思うだろう。
教育長がしているのは、それと同じことである。
それをすることが現実の教育目的の達成のためにどういう有効性があるのかを吟味しないままに、恣意的に選んだ基準に基づいて、教員の適性を格付けしようとしている。
繰り返し聞くが、「そうすることによって、あなたは子供たちの市民的成熟にどのようなプラス効果が期待されると思っているのか?」
たしかに「鞭」を振り回せば、教員たちの自尊感情を損なうことはできるだろう。
イエスマンだけが出世し、多少とでも教育行政に批判的な教員は浮かばれないというシステムは作れるだろう。
処罰を怖れて式典で口元をはずかしげにぱくぱくさせている教員を見て、子供たちが「なんて根性のない、つまらない教師だろう」と軽蔑と不信の感情を抱くように仕向けることはできるだろう。
だが、それによって何をしたいのか、それがわからないのだ。
大阪府の学力はご存じのとおり全国最低層に居着いている。
橋下府知事の時代からすでに5年余におよぶ教育改革の果てに、大阪の教育現場は深い混乱のうちにある。
なぜ自分たちが進めてきた政治主導の教育改革がうまくゆかないのか、それについてそろそろ「反省」ということをしてもよいのではないか。
だが、さきに全国学力テストの結果、大阪が最低層であったことを受けて橋下市長は「教育委員会の責任だ」と言い切った。
首長は「学力を上げるように」という「正しい」指示を出したのに、教育委員会はそれを物質化できなかったのだから、すべては教委の責任であり、市長には何の瑕疵もない、と。
この論法が通るなら、一連の教育改革の「失敗」もいずれ教委の無能や現場教員の「公務員としての信頼性の欠如」に帰されることになるだろう。
どうなっても何の責任も取る気がない人たちが大阪の教育行政の要路にあって、教育現場を混乱させ、教育活動を阻害する施策を次々と発令している。
無残な光景である。
言葉も出ないが、最後にひとつだけ。
教育長は「公務員の信頼性を維持するため」に条例の遵守を求めている。
ところで、彼は彼を任用した大阪市長も大阪府知事も改憲運動の先導者であることは熟知しているはずである。
維新の会は党綱領において、現行憲法を第2次大戦後に連合国から押しつけられた「占領憲法」と位置づけ、「日本を孤立と軽蔑の対象におとしめ、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶」と明記した。
これを一つの政治的意見として主張することに私は異議はないが、党代表の市長も幹事長の府知事も公務員である。
彼らは公然と憲法を批判しているわけだが、これは「公務員の信頼性」を毀損することにはならないのだろうか。
憲法99条には「公務員の憲法尊重擁護義務」が明記されている。
「天皇または摂政および国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う」
改憲運動をしている人々には国務大臣も国会議員も知事や市長も含まれているが、彼らにはそれが「憲法尊重擁護義務」違反であるという自覚はあるのだろうか。
たぶんないのだろう。
最高法規である憲法を軽んじることは「公務員の信頼性」を毀損することにならない根拠として、彼らはきっと「憲法21条で表現の自由は認められている」と憲法に書いてあるから、憲法をどれほど罵倒してもそれは公務員の「憲法尊重擁護義務」には悖らないのだと言い抜けるつもりなのだろう。

「公募校長」の資質について

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昨日に続いて大阪の教育の話。
もうこんな話はしたくないのだが、毎日ひとこと言わざるを得ない話が新聞に掲載されるのだからしかたがない。
まずは毎日新聞の記事から。

大阪市の公募で就任した民間出身の校長の不祥事が相次いでいる問題で、市教委は19日、新たに3人の民間出身校長にセクハラやパワハラの疑いがあることを明らかにした。市教委は事実関係を調べ、処分を含めて検討する。
市教委や学校関係者によると、西成区の中学校長(59)は今年4〜5月に個人面談した6人の女性教職員に、「結婚せえへんの?」「なんで子供作らへんのか」などと質問。教職員の指摘を受け、校長は6月の職員会議で謝罪した。
生野区の中学校長(37)は地域との連絡を巡って教頭と口論になり、「間違っていたら謝罪すべきだ」と問い詰め、教頭は土下座して謝った。教頭は「パワハラまがいだった」と市教委に話している。6月には修学旅行で川下りをした際、ふざけて生徒を川に落とした。生徒にけがはなかった。
一方、鶴見区の小学校長(57)は出張や休暇の手続きを取らずに計3回、職場を離脱した。市外に長時間出かけたこともあった。
校長公募は橋下徹市長の公約で、市教委は今春、民間から11人を採用した。うち1人は3カ月足らずで退職。他の1人はセクハラ行為を繰り返したとして減給処分、別の1人は虚偽のアンケートを保護者らに配ったとして厳重注意を受けた。
この日の市議会では、市議から処分の甘さを指摘したり、制度の見直しを求めたりする声が相次いだが、市教委は来春も、予定通り35人の民間出身者を採用する方針。【林由紀子、茶谷亮】

橋下市長の強力な政治主導に基づいて、民間から任用した11名の公募校長のうちすでに6名が校長としての適性に問題があることが公的に指摘されている。
英語話者だったらFantastic!という形容詞を使う場合である。
「校長不適格者選出打率」5割4分5厘。
どれほど必死に選んでも、なかなかここまでの高打率はマークできないだろう。
これらの報道から「だから、公募校長はダメなんだ」という結論を導くのは短絡的であろう。
なにしろ昨年の公募時には928人の応募者がいたのである。そのうちから選びに選んだ11名である。
この人々がある種の「人間的資質」を共有していたのだとすれば、それは任用者自身の「個性的な人間的資質」を反映していると推論して過たないだろう。
これらのケースを見ると、これら「不適格校長」に共通するのは、「威圧的」「強権的」「暴力的」「性差別的」そして「無責任」ということである。
任用者はおそらくそういうタイプの人間につよい共感を感じるのであろう。
公募校長の応募者数は今年度は去年の15%にまで急減した。前年比85%減。
採用数に対する応募者比率では95%の減である。
間違えないで欲しいが、「前年の95%に減った」のではない。「前年の5%に減った」のである。
橋下市長はこの倍率の急減について、応募時に提出するリポートを昨年の1種類から3種類に増やしたことが要因とし、「ハードルを上げた結果であまり気にしていない」と述べた(6月28日、読売新聞)。
この言い分に理ありとするならば、それは去年応募した928人についても、そのほとんどは「レポートが3種類あったら、ハードルの高さを嫌って応募しなかったような人々」だったと市長自身が認めたということになる。
そうでなければ、「実質倍率」には変化がなく、それゆえ最終的に採用される公募校長についても昨年と「変わらない質が担保されるであろう」という予測は成り立たないからである。
つまり、任用してから半年後でも採用した校長の45%程度は「不適切な行動」を咎められることのない程度の質を担保できる、と。
なるほど。
で、この制度を大阪市はいつまで続けるつもりなのであろうか。
大阪市民たちは本気で市長にはこのような愚かしく非効率な教育行政を続けて欲しいと願っているのであろうか。

特定秘密保護法について

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衆院で特定秘密保護法案の審議が始まった。
すでに多くの法律家が指摘しているように、この法案は国民主権と基本的人権を侵害する恐れがある。
行政が特定秘密の指定を専管すれば、憲法上国権の最高機関であるはずの国会議員の国政調査権も空洞化する。
国民にしても「秘密保護法違反」の罪で訴追された場合、自分が何をしたのかを明かされぬままに逮捕され、量刑の適否について議論の材料が示されないまま判決を下され、殺人罪に近い刑期投獄されるリスクを負うことになる。
前にも繰り返し書いてきたとおり、自民党の改憲ロードマップは今年の春、ホワイトハウスからの「東アジアに緊張関係をつくってはならない」というきびしい指示によって事実上放棄された。
でも、安倍政権は改憲の実質をなんとかして救いたいと考えた。
そして、思いついた窮余の一策が解釈改憲による集団的自衛件の行使と、この特定秘密保護法案なのである。
解釈改憲は文言をいじらないで、事実上改憲して、アメリカの海外での軍事行動に参加する道を開くことである。
憲法をいじらないで、内閣法制局の憲法解釈に任せるなら、実際に海外派兵要請がアメリカから来て、その適否の判断が喫緊の外交課題になったときに「ぐずぐず議論している余裕なんかない、待ったなしだ」というお得意のフレーズを連打して、無理押しすることができると踏んだのであろう。
とりあえず、それまでは「アメリカと一緒に海外で軍事行動をするぞ」というのは政権担当者の心の中の「私念」に過ぎない。
成文化されない「心の中で思っていること」である限り、中国や韓国もこれをエビデンスベーストでは批判することができない。
特定秘密保護法案は放棄された自民党改憲案21条の「甦り」であることがわかる。
改憲草案21条はこうであった。
「出版その他一切の表現の自由は、保障する。
2 前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない。」
特定秘密保護法は「公益及び公の秩序」をより具体的に「防衛、外交、テロ防止、スパイ防止」と政府が指定した情報のことに限定した。
現実にはこれで十分だと判断したのであろう。
例えば、私の今書いているこの文章でも、それが防衛政策や外交政策の決定過程についての政権内部での秘密に言及したものであり、「重大な国防上の秘密を漏洩し、外敵を利することで結果的にテロに加担している」という判断はできないことはない(私のような官僚的作文の名手に任せてもらえれば、そのようなフレームアップはお安いご用である)。
私とて大人であるから、政府が国益上公開できない秘密情報があることは喜んで認める。だが、秘密漏洩についての法的措置は多くの法律家が指摘するとおり現行法で十分に対応できている。
現に、重大な国防外交上の秘密漏洩事案は過去にいくつかあったが、いずれも現行法によって刑事罰を受けている。この法律がなかったせいで防げなかった秘密漏洩事例があるというのであればそれをまず列挙するのが立法の筋目だろう。
だが、そのような事例はひとつも示されていない。
これまで存在したが罰されずに見逃されてきた事例について、それを処罰する法律を立法するのは筋目が通っている。
けれども、これまで存在しなかった犯罪について、それを処罰する法律の制定が国家的急務であるという話はふつうは通らない。
秘密保護について言うなら、これまで官僚たちが大量の秘密文書を廃棄して、国民の知る権利を妨害してきたことを処罰する法律を制定することがことの順番だろう。
この事例はまさに1945年の敗戦時の膨大な文書廃棄から始まって、開示請求に対して「みつかりません」とか「なくしました」とか「燃やしたようです」というような木で鼻を括ったような対応をしてきた官庁まで無数の事例がある。
これを許さない法律の制定であるなら、私も大歓迎である。
だが、今回の法律のねらいはそこにはない。
逆である。
「行政の失態や誤謬」にかかわる情報開示が特定秘密に指定されれば、行政への批判は事実上不可能になる。
これがきわめて強権的で独裁的な政体に向かう道を開くことであるという判断に異を唱える人はいないだろう。
政府はTPPの交渉や原発事故対応は特定秘密の対象にならないと答弁したが、原発の警備実施状況は特定秘密に該当すると述べた。
開示請求された情報の中に特定秘密に該当するものが断片的にでも含まれていれば、行政はその全部を秘匿するであろう。法律を弾力的に運用すれば、自己利益が高まるなら、政治家も官僚も必ずそうする。これは断言できる。
特定秘密保護法は賢明で有徳な政治家が統治すれば実効的に機能するが、愚鈍で邪悪な政治家が統治すれば悪用される法律である。
そういう法律は制定すべきではない。
それは現在の政治家や官僚が例外なく愚鈍で邪悪であるということを意味するのではない。
そのような人々が政治の実権を握ったときに被害を最少のものにするべく備えをしておくのが民主制の基本ルールだからである。
別に私がそう言っているのではない。
アメリカの民主制を観察したトクヴィルがそう言っている。
だが、その「民主制の基本ルール」を現在の安倍自民党政府はご存じないようである。
「民主国家」の統治者が民主制の基本ルールを知らないという場合、彼らが「賢明で有徳である」のか、それとも「愚鈍で邪悪である」のか、その蓋然性の計算は中学生にもできる。
安倍政権の狡猾さは、この特定秘密保護法が「果されなかった改憲事業」の事実上の「敗者復活戦」でありながら、アメリカのつけた「中国韓国を刺激するな」という注文については、これをクリアーしていることにある。
強権によって国内の情報統制を行うという点について、この両国は日本に「そのような非民主的な法律を作るのはよろしくない」と批判できる立場にない。
言ってもいいが、国際社会からも国内からも冷笑を以て迎えられるだけだろう。
だから、表現の自由の抑圧はいくらやっても、東アジア諸国(シンガポール、ベトナムはじめそのほぼすべての国が現在の日本よりも表現の自由において民主化が遅れている)から「非民主的なことはやめろ」という抗議が来る気づかいはない。
それどころか、日本のような豊かで安全な国でさえ、治安のために強権的な言論統制が必要なのであるから、治安の悪いわが国においておや、という自国の強権的統治を正当化する根拠として活用することができる。
つまり、まことに気鬱なことであるが、日本の民主化度を「東アジアの他の国レベルまで下げる」ことは世界的に歓迎されこそすれ、外交的緊張を高める可能性はないのである。
というわけで、安倍政権は改憲プランを放棄した代償に「東アジアに緊張関係を作り出さずに改憲の実を取る」という宿題に「集団的自衛権」と「特定秘密保護法案」を以て回答したのである。
かなりの知恵者が政権中枢にはいるということである。


特定秘密保護法案について(つづき)

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昨日のブログで、特定秘密保護法について私はこう書いた。
「安倍政権の狡猾さは、この特定秘密保護法が『果されなかった改憲事業』の事実上の『敗者復活戦』でありながら、アメリカのつけた『中国韓国を刺激するな』という注文については、これをクリアーしていることにある。(・・・)まことに気鬱なことであるが、日本の民主化度を『東アジアの他の国レベルまで下げる』ことは世界的に歓迎されこそすれ、外交的緊張を高める可能性はないのである。」
これについて、池田香代子さんから「ニューヨークタイムズが法案についての批判記事を掲載していました」というご教示を頂いた。
さっそく読んでみる。
NYTは10月30日の社説で「日本の反自由主義的な秘密保護法案」(Japan’s illiberal secrecy law)という記事が掲載されていた。illiberal は「リベラルでない」という政治的な意味の他に「狭量な、教養のない、下品な」という人格の瑕疵についても用いられるきわめて否定的な形容詞である。
タイトルは4月の同紙が掲げたJapan’s unnecessary nationalism (日本の不要なナショナリズム)と同形的であり、文体もロジックも共通点が多いので、おそらく同紙の日本担当記者によるものであろう。
いずれの社説も安倍政権が時代を逆行するような強権的で好戦的な国家を作り出そうとすることを批判しているのだが、その論拠は、一つにはリベラル派のデモクラシー擁護の立場から、一つにはアメリカの西太平洋戦略への妨害要因として批判するという「二正面」的なものである。
とりあえず全文を読んで頂こう。

「日本政府は国民の知る権利を冒す秘密保護法案の制定をめざしている。この法律はすべての政府省庁に防衛、外交、防諜、対テロにかかわる情報を国家機密に指定する権限を賦与するもののだが、秘密の指定要件についてのガイドラインが存在しない。この定義の欠如は政府があらゆる不都合な情報を秘密指定できるということを意味している。
提案された法案によると、機密を漏洩した国家公務員は10年以下の懲役刑を受ける。このような規定があれば、公務員は秘密公開のリスクを取るよりは文書を秘密に区分するようになるだろう。
現在まで、情報を“防衛機密”に指定できる権限を持っていたのは防衛省のみであるが、その記録は底なしの闇に消えている。2006年から11年にかけて防衛省が秘密指定した文書は55000あるが、そのうち34000が文書ごとに定められた非公開期間の終了後に廃棄されている。情報公開された文書はただ一件だけである。
新法案はこの非公開期間を無限に延長することを可能にするものである。そればかりか、国会議員との秘密情報の共有についての明確な規定がないため、政府の説明責任はいっそう限定的なものになる。
法律はさらに「無根拠」(invalid)で「不当な」(wrongful)な方法で情報収集を行ったジャーナリストに対しても5年以下の懲役を科すとしている。このような脅迫によって政府の実体は一層不明瞭なものとなるだろう。
日本の新聞はジャーナリストと公務員の間のコミュニケーションが著しく阻害されることを懸念しており、世論調査は国民がこの法律とその適用範囲に対して懐疑的であることを示しているが、安倍晋三首相はこの法律の迅速な制定を切望している。
安倍氏はアメリカ式のNSC(国家安全会議)のようなものを設立したがっているのであるが、これはワシントンは日本が十分な情報管理が果たせないのであればこれ以上の情報共有はできないということを通告したためである。
安倍氏が提案している安全会議の6部局のうちの一つは中国と北朝鮮を管轄し、他の部局は同盟国その他の国を管轄する。
この法案制定の動きは安倍政府が中国に対して示している対立姿勢と政権のタカ派的外交政策を反映しているが、法律は市民の自由を侵害しかねないものであり、東アジアにおける日本に対する不信をいや増すことになるであろう。」

書かれている内容は日本の新聞が報道していることとほとんど変わらない。
問題はこれがNYTの社説だということである。
4月の記事がそうであったように、NYTの安倍政権の政策批判はワシントンの意向を迂回的にではあるが示している。
前回の社説が出たあと、わずか2週間前に「村山談話の見直し」を高らかに宣言した首相は「村山談話の継承」への180度の方向転換した。
この「食言」の政治的責任を問う声は日本のメディアからはついに聴かれなかった。
アメリカの一喝で日本政府の外交方針が一夜にして逆転するという事実(つまり、日本がアメリカの衛星国であり従属国であるという事実)を日本の政治家も官僚もメディアも決して認めない。
いずれにしても、NYTの記事はホワイトハウスからのひとつのシグナルとして解読されねばならないということである。
記事そのものにそれだけの影響力があるということではなく、この記事がワシントンにおける「日本に対するそのつどのドミナントな判断」を伝えているからである。
この記事がこれからあとの安倍政府の動向にどう影響するのか、今の段階ではまだわからない。
昨日書いたように、改憲や談話見直しに比べると、「中韓を刺激しない」という点では特定秘密保護法案はアメリカの要請をクリアーしている。
「アメリカに迷惑はかけませんから」とこのまま一気にごり押しするか、アメリカとの情報共有体制を整備するための法案に当のアメリカからクレームがついたのは想定外だったからちょっと様子を見ようか、政権内部では今そういう相談をしているはずである。
まことに切ないことではあるが、私は「アメリカのクレームに屈して」政府がこの愚劣な法案の成立を断念することを願っている。
そのようにして、日本人は「アメリカの裁定に従うことが、日本にとっての最適解である」という信憑を刷り込まれて行く。
安倍首相の真意が奈辺にあるか私には忖度のしようがないが、彼が与えられたすべての機会を駆使して「アメリカへの完全従属」へと日本人を押しやるマヌーヴァーに成功していることは、わが身を省みても事実である。

特定秘密保護法案について(その3)

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特定秘密保護法案について、朝日新聞の取材があった。紙面に出るのは話したうちのごく一部になると思うので、これまで書いてきたこと以外のことについて話した部分を追記する。
これまでの話をおさらいしておく。
・特定秘密保護法案が秋になって突然出てきたのは、5月の「改憲の挫折」に対する「プランB」としてである。
・改憲による政体の根本的な改革が不可能になったので、それを二分割して「解釈改憲による集団的自衛権の行使=憲法九条の事実上の廃絶」と、「特定秘密保護法案によるメディアの威圧=憲法21条の事実上の廃絶」という改憲の「目玉」部分だけを取り出した。
・改憲は「東アジアの地政学的安定を脅かすリスクがある」せいで、アメリカも中国も韓国もステイクホルダーのすべてが否定的だったが、改憲を二分割した場合、「九条廃絶による米軍の軍事行動への加担」にはアメリカが反対せず、「21条廃絶による国内の反政府的言論の抑圧」には中国韓国が反対しない。つまり「一つの塊では『穴』を抜けられないが、二つに割ると抜けられる」ということに気づいた知恵者が官邸にいた。
・改憲による政体の根本的な改革のめざす方向は「日本のシンガポール化」であり、さらに言えば「国民国家の株式会社化」である。つまり、「経済発展」を唯一単独の国是とする国家体制への改組である。すべての社会システムは経済発展を利するか否かによってその適否を判定される。経済発展に利するところのない制度(おもに弱者救済のための諸制度)は廃絶される。
・取締役の選出を従業員が行ったり、役員会の合意事項に労働組合の承認が必要であったり、外部との水面下の交渉やさまざまな密約について逐一全社員に報告する会社は存在しない。株式会社は一握りの経営陣に権限も情報も集中する上意下達システムであることで効率的に機能するのであって、従業員の過半数の賛成がないと次の経営行動ができないような会社は存在しない。だから、「国家の株式会社化」とは端的にデモクラシーの廃絶を意味する。
・特定秘密保護法案は、安倍自民党と彼に与するグローバリストたちが画策している「国家の株式会社化」プロセスの一環である。
・それは別に彼らが「株式会社化された国家こそ理想の国家である」という牢固たる政治的確信を持っているからではなく、「その方が経済成長しやすい」というあまり根拠のない信憑に衝き動かされているからである。一言で言えば、この法案が国会を通過するということは、「デモクラシーか金か」という二者択一を前にしたとき、ためらわず「金」と回答する人々が日本のマジョリティを占めるようになったという現実を映し出しているのである。
以上はこれまでに書いてきたことである。
今日追加でお話したのは
・情報管理というのは法律で行うものではなく、「常識」で行うものである。イージス艦についての情報漏洩、尖閣での艦船の衝突映像の海保からの流出、公安テロ情報の流出など、この間問題になったのは、いずれも秘密漏洩によって国益を毀損しようとする明確な犯意に基づく事件ではなく、情報管理のフロントラインにいる公務員の「非常識」によって起きたものである。これほどデリケートな情報を管理するセクションに、これほど市民的成熟度の低い人員が配置されているということは、個人の問題ではなく、組織の「職員教育」の問題である。組織の問題である以上、秘密指定を拡大し、厳罰で臨んでも、「自分が何をしているのかよくわかっていない」非常識な公務員が制度的に生まれ続けるシステムを温存する限り、情報管理は永遠にできない。
・漏洩された情報についてマスメディアが報道を自粛するということは多いにありうるだろう。特にテレビは今後反政府的な情報の公開に対しては「それが周知されて、機密性を失うまで報道しない」という「へたれ」メディアになり、報道機関としての歴史的役割をこれによって終える可能性が高い(というか、もう終えているのかもしれないが)。
・その代わり、秘密情報にアクセスして、これを国益上周知させる必要があると判断した公務員は匿名で発信できるネットのサービス(ウィキリークスなど)を利用するようになるだろう。
・公安テロ情報の漏洩事件(結局犯人見つからず)や、PC遠隔操作事件(証拠が見つからないまま容疑者を長期拘留)における捜査当局のネットリテラシーの低さを勘案すると、発信者をトレースできないように構築されたサービスを経由した場合に捜査当局にこれを追究する能力があるとは思われない。
・今後ネット上での秘密漏洩の捜査能力を飛躍的向上させるためには大量の人員を配備する必要がある。だが、その場合に、捜査当局が「即戦力」としてリクルートするのは「エドワード・スノーデン君みたいなフリークス」の他にない。それはつまり「即戦力」即「リスクファクター」となることを意味している。彼ら特異な能力と、おそらくはそれにふさわしいだけ特異な国家観・世界観の持ち主たちを国家機密のフロントラインに大量に配列した場合、区々たる機密漏洩ではなく、システムそのものがクラッシュするリスクが発生する。
・そればかりではない。大量の「秘密漏洩トレーサー」を雇用するためには膨大な人件費支出が予想される。中国ではついに「治安維持費」が「国防費」を上回ったが、治安維持費の相当部分は一日中ディスプレイに貼り付いて、ネットに国家機密が漏洩していないか、反政府的なコメントが書き込まれていないかをチェックする数十万の「トレーサー」たちの人件費なのだそうである。日本の場合、誰がこのコストを負担するのか。国家予算の相当部分を投じてもたぶん「もぐらたたき」以上の効果をもたらさないこの作業はどの省庁が引き受けるのか。
これまでは「どういう流れの中でこの法案が出てきたのか」ということを書いてきたが、今日は法案が国会を通過した場合に、この先何が起きるかを予測してみた。
たぶん、政府は、この法律を実効的に運用しようとしたら、国家予算の相当部分を「覗き」行為に投じなければならなくなるということを想像していない。
悪知恵は働くが、根本的には頭の悪い人たちである。

特定秘密保護法案の廃案を求めるアピール

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佐藤学先生からお声がけを頂きました、特定秘密保護法案の衆院強行採決に抗議し、廃案を求める学者たちからのアピールに参加した。以下、そのアピールの全文と賛同者たちの氏名を掲げておく。
アピールは明日(11月28日)午後1時に学士会館でメディアに公式発表の予定。その段階で、賛同者のリストはさらに長くなるはずである。

特定秘密保護法案の衆議院強行採決に抗議し、ただちに廃案にすることを求めます


 国会で審議中の特定秘密保護法案は、憲法の定める基本的人権と平和主義を脅かす立法であり、ただちに廃案とすべきです。
 特定秘密保護法は、指定される「特定秘密」の範囲が政府の裁量で際限なく広がる危険性を残しており、指定された秘密情報を提供した者にも取得した者にも過度の重罰を科すことを規定しています。この法律が成立すれば、市民の知る権利は大幅に制限され、国会の国政調査権が制約され、取材・報道の自由、表現・出版の自由、学問の自由など、基本的人権が著しく侵害される危険があります。さらに秘密情報を取り扱う者に対する適性評価制度の導入は、プライバシーの侵害をひきおこしかねません。
 民主政治は市民の厳粛な信託によるものであり、情報の開示は、民主的な意思決定の前提です。特定秘密保護法案は、この民主主義原則に反するものであり、市民の目と耳をふさぎ秘密に覆われた国、「秘密国家」への道を開くものと言わざるをえません。さまざまな政党や政治勢力、内外の報道機関、そして広く市民の間に批判が広がっているにもかかわらず、何が何でも特定秘密保護法を成立させようとする与党の政治姿勢は、思想の自由と報道の自由を奪って戦争へと突き進んだ戦前の政府をほうふつとさせます。
 さらに、特定秘密保護法は国の統一的な文書管理原則に打撃を与えるおそれがあります。公文書管理の基本ルールを定めた公文書管理法が2009年に施行され、現在では行政機関における文書作成義務が明確にされ、行政文書ファイル管理簿への記載も義務づけられて、国が行った政策決定の是非を現在および将来の市民が検証できるようになりました。特定秘密保護法はこのような動きに逆行するものです。
 いったい今なぜ特定秘密保護法を性急に立法する必要があるのか、安倍首相は説得力ある説明を行っていません。外交・安全保障等にかんして、短期的・限定的に一定の秘密が存在することを私たちも必ずしも否定しません。しかし、それは恣意的な運用を妨げる十分な担保や、しかるべき期間を経れば情報がすべて開示される制度を前提とした上のことです。行政府の行動に対して、議会や行政府から独立した第三者機関の監視体制が確立することも必要です。困難な時代であればこそ、報道の自由と思想表現の自由、学問研究の自由を守ることが必須であることを訴えたいと思います。そして私たちは学問と良識の名において、「秘密国家」・「軍事国家」への道を開く特定秘密保護法案に反対し、衆議院での強行採決に抗議するとともに、ただちに廃案にすることを求めます。

2013年11月28日
特定秘密保護法案に反対する学者の会
浅倉 むつ子(早稲田大学教授、法学)
池内 了  (総合研究大学院大学教授・理事、天文学)
伊藤 誠  (東京大学名誉教授、経済学)
上田 誠也 (東京大学名誉教授、地震学)
上野 千鶴子(立命館大学特別招聘教授、社会学)
内田 樹  (神戸女学院大学名誉教授、哲学)
内海 愛子 (大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター所長、社会学)
宇野 重規 (東京大学教授、政治学)
大澤 真理 (東京大学教授、社会学)
小沢 弘明 (千葉大学教授、歴史学)
加藤 節  (成蹊大学名誉教授、政治学)
加藤 陽子 (東京大学教授、歴史学)
金子 勝  (慶応大学教授、経済学)
姜 尚中  (聖学院大学全学教授、政治学)
久保 亨  (信州大学教授、歴史学)
栗原 彬  (立教大学名誉教授、政治社会学)
小森 陽一 (東京大学教授、文学)
佐藤 学  (学習院大学教授、教育学)
杉田 敦  (法政大学教授、政治学)
高橋 哲哉 (東京大学教授、哲学)
野田 正彰 (元関西学院大学教授、精神医学)
樋口 陽一 (東北大学名誉教授、憲法学)
廣渡 清吾 (専修大学教授、法学)
益川 敏英 (京都大学名誉教授、物理学)
宮本 憲一 (大阪市立大学・滋賀大学名誉教授、経済学)
鷲谷 いづみ(東京大学教授、生態学)
和田 春樹 (東京大学名誉教授、歴史学)
(2013年11月27日0時現在)

アピール賛同者のリスト

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特定秘密保護法案の強行採決に反対し、廃案を求める学者たちのアピールに賛同して、私あてに「賛同します」というメールやツイートをしてくださったのは、下記のみなさんです。
このリストを28日10:00に事務局に送付いたしますが、もし名前肩書きに誤記がありましたら、お知らせください。また連絡したはずだが名前がないという方もお知らせください。
リストは午後1時からの記者会見で発表されます。
これ以後賛同者としてアピールに参加ご希望の方は内田ではなく、直接事務局あてに「氏名・所属先・職名・専門」をお知らせください。

事務局は千葉大の小沢弘明先生です。
Fax: 043-290-2302 (研究室)
e-mail: ozawa@l.chiba-u.ac.jp

私のところに届いた賛同者は11月28日9:00段階で以下の通りです。
本日の記者会見には間に合わなかった方も次に更新するリストには載せていただけるようにしてお願いしておきます。どうぞご諒承ください。


中野晃一(上智大学教授・政治学)
山口二郎(北海道大学教授・政治学)
中田考(元同志社大学教授・イスラーム学)
増田聡(大阪市立大学准教授・音楽学)
向井光太郎 (奈良佐保短大准教授・マーケティング)
遠藤不比人(成蹊大学教授・英文学)
小幡尚(高知大学准教授・日本近代史)
梁川英俊(鹿児島大学教授・文学)
村上信明(創価大学准教授・歴史学)
坂井弘紀(和光大学教授・中央アジア文化研究)
鏑木政彦(九州大学教授・政治思想史)
下河辺美知子(成蹊大学教授・アメリカ文学)
土佐弘之(神戸大学教授・国際関係論)
豊島耕一(佐賀大学名誉教授・物理学)
柳原孝敦(東京大学准教授・ラテンアメリカ文学)
上番増喬(徳島大学・栄養学)
津富宏(静岡県立大学教授・犯罪学)
佐藤友亮(神戸松蔭女子学院大学准教授・医学)
小池隆太(山形県立米沢女子短期大学准教授・記号論)
安藤泰至(鳥取大学准教授・宗教学)
吉岡洋(京都大学教授・美学芸術学)
三浦まり(上智大学教授、政治学)
遠藤雅裕(中央大学教授・言語学)
上西充子(法政大学教授・社会政策)
上脇博之(神戸学院大学教授・憲法学)
高橋巌(日本大学教授・農業経済学)
三浦欽也(神戸女学院大学准教授・認知科学)
野崎次郎(関西大学非常勤講師・フランス文学)
青木真兵(関西大学非常勤講師・歴史学)
平野幸彦(新潟大学准教授・アメリカ文学)
安西敦(香川大学准教授・刑事実務学)
西原博史(早稲田大学教授・憲法学)
関橋英作(東北芸術工科大学教授・企画構想学)
水島久光(東海大学教授・メディア論)
菅原純(東京外国語大学非常勤講師・歴史学)
平川克美(立教大学特任教授・ビジネス論)
光嶋裕介(首都大学東京助教・建築設計)
岡田健一郎(高知大学講師・憲法学)
武藤整司(高知大学教授・哲学)
金田雅司(東北大学助教・物理学)
西郷甲矢人(長浜バイオ大学講師・数学)
千野健太郎(埼玉医科大学助教・医学)
志賀浄邦(京都産業大学准教授・仏教学)
小坂井敏晶 (パリ第八大学准教授・社会心理学)
川本真浩(高知大学准教授・歴史学)
平尾剛(神戸親和女子大学講師・スポーツ教育学)
神吉直人(香川大学准教授・経営学)
鈴木準一郎(首都大学東京准教授・生態学)
小林敏明(ライプツィヒ大学教授・日本学)
貴志俊彦(京都大学教授・東アジア近現代史)
鹿野豊(分子科学研究所特任准教授・物理学)
釈徹宗(相愛大学教授・宗教学)
丸井一郎(高知大学教授・言語相互行為理論)
荻野哉(大分県立芸術文化短大准教授・美学芸術学)
門脇健(大谷大学教授・宗教学)
山下仁(大阪大学教授・社会言語学)
伊藤慎二(国学院大学助教・考古学)
宮本真也(明治大学准教授・社会哲学)
松田洋介(金沢大学准教授・教育社会学)
工藤晋平(京都大学特定准教授・臨床心理学)
西山秀人(上田女子短大教授・日本文学)
大塚直哉(東京藝術大学准教授・音楽)
嘉指信雄(神戸大学教授・哲学)
酒匂宏樹(東海大学講師・数学)
長光太志(佛教大学非常勤講師・社会学)
城一裕(情報科学芸術大学院大学講師・音響学)
伊地知紀子(大阪市立大学准教授・人類学)
山崎直樹(関西大学教授・中国語教育学)
江弘毅(神戸女学院大学非常勤講師・編集論)
吉田栄人(東北大学准教授・人類学)
宮本有紀(東京大学講師・精神看護学)
今滝憲雄(武庫川女子大学非常勤講師・教育学)
川口洋誉(愛知工業大学講師・教育法)
中條健志(大阪市立大学ドクター研究員・フランス語圏学)
加藤有子(東京大学助教・ポーランド文学)
鈴木貞美(国際日本文化研究センター名誉教授・日本文芸文化史)
上園昌武(島根大学教授・経済学)
川井巧(福島県立医科大学助教・医学)
岡本良治(九州工科大学名誉教授・物理学)
阿部昇(秋田大学教授・教育学)
岡室美奈子(早稲田大学教授・テレビ論演劇論)
小関和弘(和光大学教授・日本文学文化研究)
杉本昌昭(和光大学准教授・社会学)
八木孝夫(東京学芸大学教授・英語学)
碓井広義(上智大学教授・メディア論)
實川幹朗(姫路独協大学教授・世界学)
加藤典洋(早稲田大学教授・文学)
大河内泰樹(一橋大学准教授・哲学)
渡邊良弘(新潟医療福祉大学准教授・精神医学)
西山教行(京都大学教授・言語教育学)
大澤五住(大阪大学教授・神経科学)
堀茂樹(慶応義塾大学教授・フランス思想史)
只友景士(龍谷大学教授・財政学)
大貫隆史(関西学院大学准教授・英文学)
高橋暁生(上智大学准教授・歴史学)
桃木至朗(大阪大学教授・歴史学)
中西裕樹(同志社大学准教授・言語学)
賀茂美則(ルイジアナ州立大学教授・社会学)
砂連尾理(神戸女学院大学音楽学部非常勤講師・コンテンポラリーダンス)
藤山直樹(上智大学教授・精神分析)
瀧本知加(東海大学講師・教育学)
舩田クラーケンさやか(東京外国語大学准教授・国際関係論)
高柳美香(明治大学准教授・マーケティング)
小松田儀貞(秋田県立大学准教授・社会学)
藤井敬之(愛知教育大学教授・教育学)
小泉直子(静岡産業大学非常勤講師・組織行動学)
河野真太郎(一橋大学准教授・英文学)
吉本和弘(県立広島大学准教授・英文学)
寺田勇文(上智大学教授・東南アジア研究)
八代嘉美(京都大学)
山本奈生(佛教大学専任講師・社会学)
熊澤弘(武蔵野音楽大学講師・博物館学)
ハドリー浩美(新潟大学准教授・英語教育学)
越智敏夫(新潟国際情報大学教授・政治学)
氏家法雄(千葉敬愛短大非常勤講師・組織神学)
柏原誠(大阪経済大学・政治学)
林祥介(神戸大学教授・地球惑星科学)
海老根剛(大阪市立大学准教授・表象文化論)
中野昌宏(青山学院大学教授・社会思想史)
堀江宗正(東京大学准教授・宗教学)
笹島秀晃(大阪市立大学専任講師・社会学)
田中孝史(東京外国語大学特定研究員・言語学)
小野原教子(兵庫県立大学准教授・文化記号論)
輪島裕介(大阪大学准教授・音楽学)
橋本一径(早稲田大学准教授・表象文化論)
土屋誠一(沖縄県立芸術大学講師・美術史)
越田美穂子(香川大学准教授・保健学)
鳥山祐介(千葉大学准教授・ロシア文学)
細川弘明(京都精華大学教授・文化人類学)
出水薫(九州大学教授・政治学)
植村洋(和光大学名誉教授・英文学)
山中淑江(元同志社大学非常勤講師・西洋文化史)
山下純照(成城大学教授・演劇学)
渡辺裕(東京大学教授・音楽学)
吉田寛(立命館大学准教授・感性学)
松井克浩(新潟大学教授・社会学)
細川弘明(京都精華大学教授・文化人類学)
時安邦治(学習院女子大学教授・社会学)
山崎望(駒澤大学准教授・政治学)
今井慎太郎(国立音楽大学専任講師・コンピュータ音楽)
和田悠(立教大学准教授・社会教育)
岩村原太(京都造形芸術大学准教授・舞台デザイン)
遠藤泰弘(松山大学教授・政治学)
水野隆一(関西学院大学教授・ヘブライ語聖書学)
福島祥行(大阪市立大学教授・フランス語圏学)
田中裕喜(滋賀大学准教授・教育学)
坂野鉄也(滋賀大学准教授・歴史学)
岡井崇之(稚内北星学園大学専任講師・メディア論)
古市将樹(愛知文教大学准教授・教育学)
辻学(広島大学教授・新約聖書学)
中島宏(鹿児島大学教授・刑事法学)
滝川幸司(奈良大学教授・日本文学)
久保木秀夫(鶴見大学准教授・書誌学)
色平哲郎(独協医科大学非常勤講師・地域医療)
中島万紀子(早稲田大学非常勤講師・フランス語)
國分俊宏(青山学院大学教授・フランス文学)
浅野純一(追手門学院大学教授・中国文学)
高村峰生(神戸女学院大学専任講師・アメリカ文学)
堀川智也(大阪大学教授・日本語学)
石澤一志(目白大学専任講師・日本文学)
浅野智彦(東京学芸大学教授・社会学)
園田寛道(滋賀医科大学助教・医学)
小暮宣雄(京都橘大学教授・文化政策学)
浅川達人(明治学院大学教授・都市社会学)
武田信子(武蔵大学教授・臨床心理学)
高田友美(滋賀大学特任准教授)
水田憲志(関西大学非常勤講師・地理学)
小野寺拓也(昭和女子大学専任講師・歴史学)
木下勇(千葉大学教授・都市計画学)
内村直之(慶応義塾大学非常勤講師・科学ジャーナリズム)
加藤秀一(明治学院大学教授・社会学)
池田暁史(文教大学准教授・精神分析)
田口卓臣(宇都宮大学准教授・フランス文学)
平林香織(岩手医科大学教授・日本文学)
森隆史(関西学院大学非常勤講師・ソーシャルキャリア論)
安達太郎(京都橘大学教授・日本語学)
近藤隆二郎(滋賀県立大学教授・環境計画学)
小浜正子(日本大学教授・歴史学)
兵藤宗吉(中央大学教授・心理学)
小熊和郎(西南学院大学教授・フランス語学)
林衛(富山大学准教授・市民社会メディア論)
西田弘次(ビジネスブレークスルー大学准教授・コミュニケーション学)
和田浩史(立命館大学准教授)
高嶌英弘(京都産業大学教授・法律学)
野中浩一(和光大学教授・身体環境共生学)
斉藤昭子(東京理科大非常勤講師・文学)
菊池暁(京都大学助教・民俗学)
佐々木玲仁(九州大学准教授・臨床心理学)
生井亮司(武蔵野大学准教授・美術教育学)
佐藤憲一(東京理科大学専任講師・アメリカ文学)
小松崎拓男(金沢美術工芸大学教授・博物館学)
木戸口正宏(北海道教育大学釧路校講師・教育学)
深尾葉子(大阪大学准教授・社会生態学)
森修一(東京医科歯科大学特任助教・化学)
菊池哲彦(尚絅学院大学准教授・社会学)
岡田正巳(首都大東京教授・数理科学)
川端康雄(日本女子大学教授・英文学)
杉田俊介(同志社大学特別研究員・キリスト教学)
太田泰人(女子美術大学教授・美術史)
小沼純一(早稲田大学教授・音楽文化論)
高橋佳三(びわ湖成蹊スポーツ大学准教授・スポーツバイオメカニクス)
田川とも子(神戸女学院大学非常勤講師・表象文化論)
西田昌司(神戸女学院大学教授・医科学)
神田貴成(大阪芸術大学非常勤講師・マンガ論)
北島正二朗(シンガポール国立大学博士研究員・生物学)
溝尻真也(目白大学専任講師・メディア論)
守中高明(早稲田大学教授・フランス現代思想)
中川克志(横浜国立大学准教授・聴覚文化論)
武田俊輔(滋賀県立大学講師・社会学)
佐藤守弘(京都精華大学教授・芸術学)
小野昌弘(ユニバーシティカレッジ・ロンドン上席主任研究員・免疫学)
布川弘(広島大学教授・歴史学)
住友剛(京都精華大学准教授・教育学)
小野寺秀也(元東北大学教授・物理学)
馬場重行(山形県立女子短大教授・文学)
阿部賢一(立教大学准教授・文学)
高橋雅人(神戸女学院大学教授・哲学)
清家章(高知大学教授・日本考古学)
矢田部和彦(パリ第七大学准教授・社会学)
谷本盛光(新潟大学教授・物理学)
越野章史(和歌山大学准教授・教育学)
三好永作(九州大学名誉教授・理論化学)
中野元博(大阪大学准教授・物理化学)
玉木尚之(高知大学准教授・中国哲学)
斉藤渉(東京大学准教授・思想史)
久後貴行(大阪市立大学非常勤講師・フランス語学)
山本信次(岩手大学准教授・森林政策学)
磯直樹(大阪大学特任助教・社会学)
杉田真衣(金沢大学准教授・教育学)
渋谷聡(島根大学教授・西洋史)
石川康宏(神戸女学院大学教授・経済学)
冨塚明(長崎大学准教授・環境物理学)

特定秘密保護法案に反対する学者の会記者会見全文

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特定秘密法に反対する学者の会が12月28日13:00から学士会館で開かれました。
集英社の伊藤直樹くんが音声を記録して文字起こしまでしてくれましたものに佐藤学先生が朱を入れてくれた「決定版」が送られてきましたので、改めてご紹介します。
引用などされる場合はこちらの「決定版」からされるようにお願いします。

お手間をかけた伊藤くんとスタッフのみなさんに改めて感謝致します。では、どうぞ。

2013年11月28日特定秘密法に反対する学者の会

佐藤学 :  お忙しい真っ最中だと思いますが、今日はこのように多数、お集まり頂き、ありがとうございました。最初に、ここに並んだ者の自己紹介をさせて頂きたいと思います。私、本日の司会役を務めます学習院大学の佐藤学です。専門は教育学です。

栗林彬 :  栗林彬です。政治社会学をやっています。

廣渡清吾:  法律学をやっています,廣渡清吾です。専修大学の法学部です。

杉田敦:   政治学をやっています,法政大学の杉田です。

久保亨:    歴史学をやっています,信州大学の久保と申します。よろしくお願いします。

佐藤学:    早速ですが、今回の特定秘密保護法案に反対する学者の会の声明を発表いたします。この経緯でございますが、特定機密保護法案に関しては学会関係でも個々の学会、政治学 歴史学、法学関連の学会、多くの学会がこれまでもアピール出していますけれども、今回の会はそういう学際領域を超えた広い領域の呼びかけになっていまして、ややスタートは遅れたんですけれども、事態を鑑み緊急に領域を超えた多くの学者達の声を国会に反映させたいということで組織されました。この会は、1枚目、2枚目をご覧頂ければわかりますように31名の会でございます。この31名、代表はいないのかと問われるんですが、代表はいなくて連名でとりくんでいます。当初、発起人を作りまして、6名でしょうか。そこからの呼びかけはしましたが、31名の連名の会として発足致しました。これで今日の記者会見を準備していたのですが、実はですね。もう1つ、お手元に資料をお配りしました。この資料は、この31名の1名の方が、ブログで一昨日、こういうものに同意したよ、と文面も添えて書いたところ、私も加わりたいということで多くの方々の申し込みが入ってきまして、わずか1日で304名も申し込みがあった。そういう方々から、是非この記者会見の際に、自分達の賛同の声も伝えて欲しいと申されたものです。これこそまさに想定外で、本日はともかくこの31名だけで記者会見と思っていた所、それだけ大きな反響があります。実は、私のもとにも今朝からずっとメールが届いている状況で、このような動きがあることを含めて今日ご報告したいと考えているしだいです。本日午前10時の賛同者数は304名、名前は記載の通りです。
法案は26日に衆議院で強行採決が行われた訳ですが、参議院で慎重審議ならびに良識ある国会運営を求めて緊急に声明を発表をさせて頂きたいと思います。
本日のすすめかたですけれども、私の方から声明文と連名の方々を発表し、今後の予定の概要をご説明したあと、ここに列席しています5名の方々に一言ずつ、この声明に加わったお気持ち並びにご意見などを伺ったあとで、質疑応答に答えていきたいというふうに考えています。それで、よろしいでしょうか。はい。それでは、お手元の声明文を読み上げます。

(声明文読み上げ)

         名前については読み上げることを省略させて頂きたいと思います。以上31名の連名でございます。なお、今日記者会見を終えたあとですけれども、先ほど申し上げましたように、たった1日で、しかもお一人の連名の方ブログで見ただけということで、304名の声が寄せられるという状況がございます。これから12月3日にかけて、お配りしたこちらのブログの方で受け付けを開始し、その声をもう一度集約した上で、第二次発表の記者会見を行うことを予定しております。なお、今日の声明文に関してはすべての参議院議員と関係の方々に配布する予定です。だいたい私の方の説明は以上ですけれども、よろしいでしょうか。それでは、まず、栗林先生。こちらからお願いします。一言ずつ賛同に至ったご意見をお伺いしたいと思います。

栗林彬:    政治学の視点で、この問題を考えてみたんですけど、それはね。新しい3本の矢ですね。つまり1つは、経済統制。例えば原発の推進と電力の独占とか、それから大企業優先だとか、それから経済成長、大企業優先。そういう風なことですね。それで弱者の切り捨てっていうのが、それはもう経済のレベルで進んでいる。それから軍事統制の側面があります。それから自衛隊の軍隊かとか集団的自衛権とか、武器輸出三原則の緩和とか、一連の軍事統制ですよね。それから最後に情報統制です。これは教科書の検閲、じゃなかった、検定の基準の変更ですよね。政府見解を教科書がとり入れないと、それを教科書として公的に認めないというね。そんな所から、教育委員会を行政のもとに置く所とか、それから、かなり露骨な、NHKの民意の人事への介入とかですね。こういうのも広い意味での情報統制ですけれども。こうした新しい三本の矢の要になるのがこの特定機密保護法案何ですね。これは、この三本の矢を束ねるもの凄く重要な法案だと思っています。それでナチスドイツが政権を取った1933年に、ヒトラーが首相になる訳ですけど、その時に全権委任法という、1933年の3月23日にですね、全権委任法を通すんですよね。それで、全ての情報と経済とそれから政治をクークで統制して、そこで、例えば教科書の検定なんかにあたるような焚書事件が実際にあった訳ですし、それから新しい政党禁止、労働組合も禁止、そういうふうなことも出ていく訳ですよね。その時の、要だったのかな、全権委任法は。この全権委任法はやっぱりまさに、機密保護法なんですよね。つまりこれはなんでもできる訳です。だからね、僕はこれは反対せざるを得ないんです。修正なんてもんじゃないんです。やっぱり廃案にする以外にないというふうに思います。これは、こういう問題が強行採決されたのは、安保の事例で1960年ですけれども、それに次ぐ大きな出来事だと思いますね。ただ、60年と違うのは、野党が翼賛化しているという事ですね。非常に大きな違いです。ですから市民サイドとしては、市民サイドが頑張ってやるしかないと思います。メディアも協力して欲しいし、本当に市民サイドに立った闘いというのが行われるべきだと思う。しかも衆院を法案が通っちゃったわけですけれども、だけど、これでお終いじゃないと思うんですね。この闘いというのが、事前闘争から始まっているんだけれども、この事前の闘争がちょっと市民サイドが立ち遅れているんだという認識ありますね。それからまさに今やっているのが、渦中闘争ですけれども、これが仮に法案が全部通っちゃっても、事後闘争という形になります。つまり、事前闘争、渦中闘争、事後闘争、全てを戦い抜く形で、そういう形で、市民サイドは頑張らないといけないなと思います。これは反原発の運動と問題は重なっているということが言えると思います。

廣渡清吾:  私は法律学の分野なので、多少法案について話したいと思うんですけれども、これは全体として、日本国憲法のもとでの統治機構としてのバランスを全く変えてしまうという決定的な法案じゃないかなと思いますね。今から議論をするうちにわかるんですけれども、行政機関の長が、一応時効は掲げられていますけれども、不特定な対象の事項について機密と特定する。そうするとその秘密を漏らしたり、その秘密を得ようとしたりすることが罰せられる。いいですか。どれが特定秘密かわからない訳です。どれが特定秘密かわからない。それをチェックするシステムは全くないですよね、そして行政機関の長です。省の大臣が自分でできる。内閣総理大臣がチェック役を果たすなんて言ってますけども、もともとおかしいですよね。内閣総理大臣が任命した大臣について、わざわざここでチェック役を果たす。もともとチェック役を果たすのが、ですね。そういうのが全然見えないなって。それで、修正案も含めて個別に言いますと、皆さんこれでいおかしいなっていう所があるんですけど、いいですか。有効期間を5年と定めるとなっていますよね。更新ができて、最初は議案は30年、30年を超える時には内閣の決定がいるというふうにしました。修正で60年までとして、ただし、60年を超えても7つの事項については、例外的に60年を超えても特定機密として存続させることができる、としましたね。だけど皆さん、よくご覧になると、1,2,3,4,5,6,7番目は、1~6までは一応時効は書かれているんですけど、7番目はそういう時効に関する情報に準ずるもので、政令で定める重要な情報としている。これは特定機密を60年を超えても政令で定めることが定めることができる、ということは、政令で犯罪を造る事ができるということですよね。これは憲法31条に明確に違反していると言えるんですけれども、これが修正で入った。そしてこの修正で行った。これはどういうふうに考えていいかわからないんですけど、誰も言っていませんが。有効期間5年で定められた特定機密、特定された秘密を漏らした場合に、10年以下の懲役ですよ。どういう事が起こるかっていうと、秘密によっては5年で、これは秘密でも何でもなくなるっていう事は起こりうるでしょう。そういう秘密を漏らしたということで10年の懲役ですよ。おかしいと思いませんか。その秘密が可にされても、この人はどうなるんですか。そういう事はどうなるんだっていう疑問を起こさせるような法律ですよね。それからもっというと、2001年に自衛隊法が改正されて、防衛機密という規定を置きました。一般に、自衛隊法は公務員と同じように、守秘義務は1年以下の懲役となっていますけれども、それに加えた。これは5年以下の懲役です。今回は、その防衛機密として自衛隊法が変えた時効を、それをそのまま、この特定機密法案に載せています。そして10年です。2001年から現在までの間に、いわゆる防衛秘密といわれるものを保護する、その必要性が、懲役5年からどうして10年で、10年に上がるんですか。その間、どういう変化があったんですか。こういうことを何も説明されていませんよね。もし5年から10年に上げるとすると、5年だと、どんどんどんどん秘密が漏れた。防衛秘密が漏れた。だから防衛秘密が維持できない。これだったらわかりますよ。だけどそんなことは何もないんです。だからこれは明らかに、実際に必要のあることに対応しようとするのではなくて、政府が何か新しい国家を創ろうとしているふうにしか考えられない。それが生命がいっている秘密国家であり、軍事国家だというふうに思いますね。というふうにいっぱい提案の負の方の問題があって、国民の観点からいくともちろん、知る権利を守るためにもこの法案をつぶすのです。普通に考えると非常にバランスの悪い、日本国憲法の法体系の中では非常にバランスの悪い訳ですけれども。自衛隊法で敵前闘争でも7年の刑です。今回、防衛秘密を5年から10年にして、その保護の範囲を外交秘密、テロ方針、それから、もう一つ、テロリズム。ここまで広げた。これは、法律学者のいうところの立法事項を変えている。なぜこういう法律を作ることが、国民の権利を守ることに繋がるんだ。全然ダメです、と。安倍さんが、この提案は、国民の安全を守るためだと言いましたけれども、国民は自分たちの安全が何であるかを自分たちの目で見て、自分たちの頭で考える。それが知る権利です。知る権利を蔑ろにして国民の安全を守る事なんて絶対にできません。安倍さんは詭弁(きべん)です。

杉田敦:    政治学の杉田でございます。この秘密の問題というものは非常に難しい問題で、この私たちのアピールでもですね。外交・安全保障等をつくるに関して、短期的・限定的に一定の秘密が存在することを私たちは必ずしも否定しません、と綴られている訳です。ある意味この手の反対運動とかに対して、外交秘密を認めないのか、というふうな批判があって、そういう事ではないですね。それは全部、即時にあらゆる外交等をガラス張りにするっていうことは当然私たちも認識しているんですが、これは先進諸国の前例がすべて十分とは言えないものですので、基本的に一定の年月がたてば公開して、その時点で当時の正当時点が決定した当時の政府の判断がどうだったかを少なくとも事務的に民主的に判断する余地を残す。それによってあとで検証されるから、無責任な秘密指定とか隠蔽とかはできないようにするというのが普通のやり方ですよね。これは、この点について、この法案が最初に提出された時点では全くその、無限定に近い形で出されてきたわけです。それからもう一つは、時間的にあとに検証できる担保。もう一つは、先ほどの、今も2人の方がお話になったようなことでして、行政府の権利とは、これは歴史的に見ると肥大してきたわけです。行政権の優位というのは歴史的にどうしても続いてきた。つまり憲法が立法権を国政最高機関としつつも、現実には行政というのは、国を守っていますから、ここで権力が大きくなる傾向があるわけです。ですからその行政権の権力に対してはさまざまなチェックをするというのは、少なくとも統治のシステムとして当然のことである訳ですね。ところが今回この法案においては、先ほどからお話があるように、行政府が法律を設定するに際して、ノーチェックの形で出されてきた。そして現在でも行政府の長である首相がチェックするなどといった、そのチェックという概念を理解していないというような対応が働いているわけです。これについて、チェック機関としては普通考えれば、ひとつは立法府の中に、立法権力の中に何らかのチェック機関を設ける。それから司法の部分、裁判所の中に何らかのチェック機関を設ける。あるいは、例えばアメリカ国立公文書館とかですね。これはアメリカでやっているんですけれども、第三者機関のようなものにつなげるか、少なくともそういうふうなシステムを用意するのが世界的に見て当たり前だと思うんですよね。もちろんそういうものを設けたからといって、実際には骨抜きになるっていうのはもちろん、世の中の常とは思いますけれども、そうは言いながらもやはり、全然ないというのとは違うので。ところがそういう配慮が、配慮というか当然のシステムをつくらないままこれを出してきたということが、非常になんて言いますかね。現在の政府・与党の、あるいは官僚の側かもしれませんが、思い上が利なのか、単に能力がないのかはわかりませんけれども、こういう問題について、現在のような、私たちのような成熟した社会で、そういう、なんて言いますか、粗雑な形で出せば大きな反対しか寄せられないということが理解できない。そういう極めて荒っぽい、ですね、やり方であるということを非常に危惧を持つわけですね。一応、逆に言えば、もう少し、第三者機関とか、時間とともに開示されるとか、そういうふうな条項を入れた形で、上手に出されたら、逆に私どもも反対しづらい面があるんですけれども、そういう配慮もせずにこれを出してきた。今現在、一部修正してますけれども、そういう形でやることによって、いったい最初にどういう意図があったのかということを非常に疑わせる。つまり、いろいろなことを言いながらも、極力ですね、この際、さらに行政府に権力を集中させて、いわば、ほかの部分に、発言権を奪うような体制を一挙につくろうとしたのではないか。首相等が国会で説明しているような外国との関係上、外国からその秘密をもらう関係で公務員に規制するだけではなくて、ほかの意図は全くありませんという説明を。それに対して、そもそも根本的な疑問を持つように、現在の立法を(不明瞭00:25:31)ということで、これはやはり根本から考え直して、拙速な成立というのは必要ないと思うので、もう位置から、そもそも、なんのために必要であり、どういうことが最低限、こういう秘密、国家秘密を扱うについてはどういうが必要なのかということを根本から議論し直していくしかないのではないかと思います。以上です。

久保亨:    歴史学の方をやっている久保といいます。今、ちょっと文章を、今まで歴史学者がどういうことを声明してきたのかという事で、文章をまとめて参りましたので、こちらでお回ししますから、もし足りなければ、あとでメールアドレスなどをいただけばお送りしますので、ちょっと部数が足りなくなるかもしれません。歴史学の立場から3点を申し上げたいと思います。まず、経緯を申し上げますと、ここに、ご覧になっていただければすぐご理解いただけると思いますけれども。10月30日に歴史学関係者で緊急声明を出しました。これは非常に重要な問題だということで、学者・研究者の中で早いほうの反応だったと思います。11月22日に緊急声明、第二次のも出しました。これは、歴史学の学会の中で比較的、機動的に動ける学会が動いたんですけど、日本の主だった学会が全部参加している日本歴史学協会という団体が11月19日に緊急声明を出しております。これは2枚目の所の上にあるものです。それから、その4日前に日本アーカイブズ学会というこの、公文書の専門化、文書館などの管理をやっている専門家が集まっている、やはり数百人の大きな学会があります。日本を代表する学会です。ここも意見表明という形で、より慎重論を出しております。こういうふうな形で、歴史学、こうした文書を扱う関係者の間では非常に反対が広がってきているということが経緯であります。お話ししたい3点というのはですね、第一に、今までにも文書は決して公開されていないということなんです。今公開されているものを特定秘密で保護しようというんじゃないんです。今現に公開が全然できていないという状態なんです世ね。その問題をまず言わなければいけないと思っています。古く言えば満州事変の時に、例えば関東軍の謀略で起きたということを外務省は2,3日後には公電でつかんでいるんですね。当時いた吉田茂たち、外交官の報告によって。しかしそれがまさに特定秘密でそういう名前を使いませんけれども、国家機密だからということで明らかにされなかったために長い戦争をやってしまったわけですね、日本は。そして戦後に関しても、例えばアメリカと日本との1950年代、60年代、70年代の向上も、すべてアメリカの文書を手画家k利にして研究が進む、情報が暴露されるということはご承知の通りです。実は台湾と日本との関係もそうです。渡しは中国の親善大使なので、台湾との関係については注意していますけれども、自分自身でも外交史料館に行って、1950年代、60年代の文書を調べていますけれども、本当に歯がゆい状態なんですよね。非常に公開が遅れています。これがまず、日本の現状だということを考えていただきたい。これが第一の点です。第二の点でいえば、その公開が遅れているということが国民の生命、国の将来を危なくするんですね。国益という言葉を使いたければ国益と言ってもいい。まさに国民と国の利益を損なうのが、秘密を守ってしまう、秘密を隠してしまうことだと思っています。それが第一の問題です。それから第二の点派ですね、今申し上げた事ですが、国際的に非常に立ち遅れているということなんです、日本の公文書管理が。アメリカのナショナルアーカイブズという公文書館は1000人以上の職員を抱えています。イギリスのナショナルアーカイブズもやはり700人くらいの職員を抱えています。それから、中国など、ほかの所でも数百人の職員を抱えているのは、いくらでもある。日本の国立公文書館という、すぐそこにあるところですね。竹橋にある、あそこの公文書館の職員は50人いかないはずです。桁違いなんですね。こんなに公文書の管理が遅れている国を全くいったい何をやろうとしてるんだということでですね。歴史学者や公文書関係の人値のたいへんな危機感も背景になっています。これが第二の点です。それから、第三の点ですね。この状況を変える非常に重要な手がかりがこの21世紀になって進み出した。それが情報公開法と、それから公文書管理法。二つの法律です。二つとも非常にまだ不十分な点があるということを我々は指摘しています。不十分だけれども、ようやく、そうした国民の権利を大事にする方向に手がかりの法律ができてきた訳です。その状況に慌てふためいて、逆行する動きが出てきたというのが今度の問題だというように私たちは考えています。ですから、日本アーカイブズ学会が言っているように、それは私たちの第二の緊急声明でも書いたんですが、公文書管理法という2011年の法律ですね。これに基づいて、きちんとした形で防衛秘密・外交秘密についてもこういう形で扱うという形でルールを決めて公開の体制を作っていくことが王道というか、正式の方向であって、その手がかりができているのになぜ別の法律で、とんでもない体制をつくろうとしているんだ、と。これが一番の批判点になります、以上です。

小森陽一:  文学の小森陽一と申します。文学に関わっている多くの書き手が結集している日本ペンクラブは、繰り返し、この特定機密保護法の危険性を訴え、そして何度も声明を出しています。また文学者が多く呼びかけ人となった、私は九条の会の事務局長をさせていただいていますが、九条の会の呼びかけ人は10月7日に緊急の声明を出して、この特定機密保護法の危険性が解釈懐疑に明確に結びつくものだということを指摘しました。まずやっぱり憲法の問題から言ってそこの狙いをしっかりと改めて確認する必要があると思います。すでに国家安全保障会議法NSC法は、参議院を通過してしまいました。ここは首相と、内閣官房長官と、外務大臣と防衛大臣。そのわずかな閣僚だけでですね、外交や安全保障を巡る決定をしていくということになるわけですが、当然アメリカと情報を共有した場合に、それを全部秘密にしなければならないということで、この特定国家秘密保護法という。私はこれは保護というのは、全く欺瞞(ぎまん)的な言葉だと思います。これは国家秘密隠蔽法以外の何者でもないわけで、そのことをはっきりとメディアは報道していただきたいというふうに思います。これがつくられると、つまり行政権力で、先ほど行政権力だけが特化されて、強化されていくという話がありましたが、行政権力だけで、つまり憲法に違反するとされてきたさまざまな決定をしてもそれが秘密のまま、いくっていうことですね。ですから国家安全保障会議ができて、そして秘密保護法が通ってしまえば、デウスね。閣議決定だけで、今まで海外で許されていなかった自衛隊の武力行使も決めて、それが行われて、そのまま、秘密のまますべて事後的にしか国民には知らされない。となると、私たち主権者である国民は、まさに情報が開示されて、いったい政府が行政権力や、司法権力や、立法権力が何をしようとしているのか。それが憲法に違反していないかどうかということを判断して、まさに主権者としての力を行使していくわけですね。それが一切踏みにじられるというのが今回の国家秘密保護法だと思います。ですから、国家秘密隠蔽法は主権者である国民のあり方を、まさに殺傷してしまう。国民の主権と視点を根本から奪う、そういう法律だというふうに私は判断しています。だからこそ、まさにこの、大日本帝国憲法下と治安維持法体制下において、この国の言論界というのは自発的に治安維持法に隷従していく方向で、伏せ字その他をやっていたんですね。そういう国と社会にしていいのだろうか。私は最後まで反対していきたいと思います。以上です。

佐藤学:   少し長めに時間をとって説明させていただきました。さまざまな学問分野がありますから、それぞれの立場からどのような関わりで許せない法律であるのかという見解をしていただいたということです。私の専門は教育学ですが、戦前の教育がどのように破壊されていったかという経緯を知っているものですから。この特定機密保護法案が実際に施行される状況で、まず想定されるのは集団的自衛権の行使ですよね。そうなったときに、誰もがその戦争突入への決定を行い、どう決定されたのかが秘密に特定されるようなことが許されていいかどうか。これが一番懸念されることでして、今回の衆議院のあの強制の採決の状況、世論調査等々を見ても、圧倒的に反対者の数が多いにもかかわらず、審議もほとんどなしで強行採決するという経緯そのものが、この法律の本質を表している気がいたします。きちんと国民の知る権利が守られるならば、この法律の制定自体がそのプロセスを踏むべきであって、民主主義を蹂躙する形で法律が今まさに制定されようとしていることに対して憤りと危惧を覚えずにはいられません。ほとんどの人々が「この国はいったいどうなるんだろう」という不安を抱いている。それが率直な市民が抱いている恐怖です。その恐れを誘発している法案であるところにも、この法案の本質があると理解しています。それでは、あと残された時間、24分少々ですが、順次ご質問等々いただければと思います。

東京新聞:  東京新聞の***と申しますが、(不明瞭00:37:10-00:37:15)この秘密保護法案の(不明瞭00:37:17)が、経緯があって、呼びかけがあってという。もうちょっと詳しく、いつ頃、どういう集まりがあって、これができたという。

佐藤学:    だいたいいつだっけ。4日か5日くらい間です。1週間たってない。急遽この30人。たぶん1週間、ほぼ1週間。

東京新聞:  かなり分野も幅広く集まってという形ですが、これはどういう関係で。

佐藤学:    呼びかけ人。私もその一人だったんですけれども、最初4,5人で協議されまして。具体的な名前を申し上げていいと思うんですけれども、発起人として、総合研究大学院の池内先生。現在事務局をお願いしている千葉大学の小沢先生、それから聖学院大学の姜先生、法政大学の杉田先生、東京大学の高橋哲哉先生、それから廣渡先生、そして私の6人がそれぞれ呼びかけ人という形で、それぞれどういう方に呼びかけようと相談し合いながら、呼びかけていった次第です。呼びかけたほとんどの方に積極的に賛同していただいたというのがこのリストでして、ご覧いただけばわかりますように、ノーベル賞の受賞者の益川先生、白川先生をはじめ、自然科学系の方々にも参加していただいています。このようにさまざまな領域の方々に、賛同いただいたと言うことです。先ほど申し上げ増したように、この段階のこの発表で終えようと思っていたんですけれども、さらに皆さんの要望が強いので第二次発表まで存続をしていきたいと思います。

***:    先ほど、戦前の教育がどう破壊されていったかという視点の対策として、というお話でしたけれども、戦前の教育の破壊のされ方と今回の経緯で重なるところ、あるいは違うところを。

佐藤学:    戦前の教育の破壊とは、教育によって破壊されたと言うよりも軍国主義体制がつくられる事によって、多大な破壊を教育が被ったということです。戦争への突き進む過程で情報や言論が統制され、教師の側から見ると、知らない間にどんどん全体主義化が進んでいた。戦争に突入した時も、教師には訳が分からない状態で突入していったというのが実態だと思うんです。我々が戦後に教訓として得たことは、いち早く異常な動きに対してきちんと声を上げていく。あるいは戦争を二度と起こさないという社会や国家の仕組みを作っていく事だったし、それが戦後の民主主義教育の出発点だった。だから現在の憲法改正の動きに対して私,教育関係者は、ほとんどの人々が、いったいこの国はどうなるのかと危惧している。昨日も横浜で教師達200名との研究会がありましたけど、みんな講演後に私のところに押し寄せてきて、講演内容とは関係がないのですが、「この国はどうなるんでしょう」と、その不安を訴えていました。

***:    ここに示されている発想ですが、政府が何でもできるんだっていうことですよね。政府が何でもできるんだっていうか、政府がなんでもしなければいけないっていうか。安倍さんが私の政府っていうのか、私の政府。私の政府よりも国民の政府でしょうっていうんだけど。なんて言うかなぁ。こう、とにかく政府が国民のためにやるんですから、政府に全部お任せくださいっていう話になっているんです。ですから教科書も、教育基本法の前編を支持にして(表記00:43:33)、チェックしますよ。教育委員会も、教育委員会から政府にしますよというふうに、委譲しますよと、みんな同じ発想だと思うんです。その発想自体が根本的に日本国憲法の民主主義の理念と相反しているということをなぜ、国会議員がわからないのか。これはおかしいですよ。国会は見せてもらうんですよ、特定秘密は。裁判所も、見せてもらうって書いてあるんです。見せてあげるって書いてある。実際に訴訟になったときに、特定秘密漏洩罪で訴訟になったときに、どういう秘密が漏洩されたんですかっていうことを裁判所でちゃんと審議できる華道家っていう。昨日も元最高裁の人がその辺を危惧していましたけどね。そうなんじゃないかと。根本的にあそこの所は問題です。それはすべての、安倍政権がやろうとしているすべての課題に、関わる。みんな心配しています。

***:    それだけ先生方がそれを、しかも呼びかけからわずか一週間で集まって発足に至ったというのは、それだけ意識の表れということだと思うんですが、安保改定以来という話もありましたけれども、戦後史においての位置づけ、特定機密法案の危険性というか、認識に対する危険性というのは、先生方がそれだけ、インパクトでありここ数十年で見ても、かなり重要、というふうに考えてよろしいですか。

***:    問題の性格から見て、安保以来だと思いますし、それから戦後の憲法体制といいますかね。憲法の民主主義の現状からいっても、特に国民の知る権利ですね。基本的人権の問題。それから平和主義の問題から考えてもこれ以上ないくらいの重要な案件だと思います。

杉田敦:    先ほどもですね、こちらの先生から、現在でも秘密が全く公開されていない秘密というか、情報が公開されていないとのお話がありましたけれども、今回、国会での審議の過程でも、あるいはその場の議論の中でも、西山事件の問題が議論されていまして、西山事件の判決において、正当な行為、取材行為とか正当行為であれば、処罰されない、と。西山さんの場合には、正当でなかったから処罰されるというのが裁判所の判決理由だった訳ですが、その正当行為であれば処罰されないという部分を、森大臣等執行部で引用して、だから大丈夫なんですというそちらの方向で西山事件を引用されている訳なんですが、しかし西山事件に関してすでに民主党政権時に、一定の歴史家等による検証がされて、またアメリカ等のまさに公開資料から、日米に密約があったことはほぼ明らかなんですが、にもかかわらず現在の自民党政府、自民党等は依然として認めていないわけです。彼らのかつて政府がかつて密約をやったという事を依然として認めていない。ここまで外国の資料等からも判明している事実であっても認めないような人々がですね。さらを秘密を強化するような、法制度を作っていくことに対して人々が機具を持っているのは当たり前の事ですね。まずはこれまでの、従来のいわゆる密約であるとかに関して、きちんとした検証を自分たちがやってですね。国家機密に関わるような問題にも、一定の時間がたてば当然公開するんだという風なことを担保した上で、こういう問題に手をつけるということでなければ、当然信頼を得られないことがあると思います。

***:    やはり転換点にあるというのは、自民党が改憲をして、皆さんご覧になったと思いますけれども、我々法律家から見るとジョークではありませんけれどね。現日本国憲法と自民党の改憲案を英文に翻訳してアメリカの学生に見せ手ね、今日本で新しい憲法を作ろうとしているんだけれど、どっちの憲法が新しい憲法っていったら、日本国憲法。これはジョークじゃないんですよね。まさに反動的な憲法案になっていると思いますけれども、今回のやつは3点セットでしょう。NSAつまり、日本版の保障会議をつくった。これで完全に機密のデータは管理しますよ。そのための管理のシステムをここで作りますよ。その先は集団的自衛権を憲法改正、これを変更して。これが問題なんですよ。憲法改正を変更してって言うことは、これまで日本の政治家は曲がりなりにも日本国憲法の下で、そのコントロールが利いていたんですけれども、そのコントロールをは外すということです。さっきいったように自衛隊法で隊員が職務に違反した。つまり普通の軍隊でいえば、敵前逃走したときでも7年ですよ。それを今度は10年。これはね、軍隊を特別扱いにする。そういう国家にするといいという考えがにじみ出ている。それが私には転換だと思います。安倍さんは転換を目指して第一次安倍政権を組織したでしょう。戦後レジデンス、あるいは日本国憲法のシステムとして明らかにするだからみんな心配している。日本国憲法の下で戦後66年みんなやってきたわけでしょう。どういうふうに問題があるかっていわない。問題がある勝っていうんじゃなくて、こういう日本国憲法のあり方ではいけないと思うって。イデオロギーですよ。どこに日本社会が困った問題を抱えているんですか。こういう法律ができないことによって、それを説明できない。あとは何が残っているかというと、核武装と序令性だけだと思うんですよね。たぶんこの二つを国家秘密保護法で隠したいんでしょうね。その意思決定をやっていくんでしょうね。そのことがあとで検証できないように。つまり行政府がこういう文章を破棄してしまう。だからこれが何年たっても歴史的な検証になっていかない。だからむしろ文書の公開の方を法制化していくということがさき。そういう中で行政府が文書を破棄するということに対して罰則規定を設けることが先だと思うんですよね。

山口テレビ: この法案の狙いは国民の言論というか、自らいわなくする。それが目的だからむしろその言わなきゃいけないんだという意見があったのですが、学者の皆さんとしては、阻止するんですが、そういう長い目で見て国民の運動に対してどういうアドバイスというか、どういう力点というか、何かあったら教えていただきたいと思います。

以下は小森陽一さんの発言です
佐藤学?:   何としても廃案にするために全力を尽くすつもりですけれども,もし仮にこれが参議院で通ってしまった場合には,その日からその法律を廃棄するための闘いになると思います。そして,そこで私達が発言していくことが,政府がこの法律によって何を秘密にしていくのかということを暴きだしていくことになる。その意味では,10年の懲役を覚悟した命がけの闘いになりますが,それを今の憲法の下でやりぬくのが主権者だろうと私は思います。

久保亨:   歴史学の久保です。私ども歴史学者の第2次緊急声明の最後に書いておいたのですが,現在必要なことは「「公文書管理法の趣旨にのっとって行政文書の適切な管理のための方策を とること」であり、米国の「国立公文書館記録管理庁」が持っているような文書管理全般に関する指導・監督権限を国立公文書館に付与すること、その権限に見合った規模に国立公文書館を拡充すること,そしてそれを支える文書管理の専門的人材を計画的に養成・配置することである。」」この重要性を,日本国民の意識の中で広げていくことが基本的には非常に重要だと思っております。それに支えられた公文書館行政をきちんと作らないとだめです。率直にいって,図書館と博物館は(不明瞭00:54;46)。文書館を見落としてきた。近代,現代には文書館がないのです。それが結局,文書に関する国民全体の意識を低くしてきたと私は感じています。ワシントンでもロンドンでもいってみれば,普通の市民が文書館を使っているのです。日本の文書館は本当に寂しい状態です。普通の市民が自分たちの情報を確認するために文書館を利用するという,市民の意識やモラルが出来ていないのです。だから隠してきたのです。漸く公開しようという公文書管理法が出来たときに,慌ててそれを逆戻りさせようとしていると,私はそのように考えております。長期的には,公文書管理法に基づき,権限を持ち,事前事後なしに,(不明瞭00:55:43)に立ち入って,きちんと文書を保管する体制を作って,どんどん摘発できるという権限を持っているのがこの館長なのです。これが日本にないのです。これがあれば,あらゆるところで動けるはずなのです。これがないから問題なのです。このことを,もっとメディアの方達にも考えて頂きたいと思っています。

朝日新聞:  朝日新聞のコクボと申します。杉田先生にお伺いします。先生方の問題の意識をとても共有するのですが,一方でこの前の衆議院の採決を見ますと,仮に維新が賛成していたら,衆議院の8割の賛成ということになったと思います。この議員は去年の12月に主権者である国民が選んだばかりです。この状況をどのように考えれば宜しいのでしょうか。

杉田敦:   今回,いわゆる第三局の動き方がよく分かりません。これは,いわゆる政局的というか,政治方法的な感覚からいえば,与党に入りたがっているというか,多数派に入って何らかの規制作りをしたいというような。逆にいうと第三局が急激に成長することは阻まれたので,くっついていこうという政策に転換したのか分かりませんけれども,そういう政局的なことは兎に角として,世論が非常に警戒感を持っている,外国のメディアも含めて(不明瞭00;57;53)大変なことになると思います。一ついいこととしては,自民党の中からも疑問を持つ人が出てきているということです。報道されていますよね。先ほどの質問とも少し絡めて申し上げますと,先ほど申し上げた西山事件に関わって日米に密約が出た時も,民主党政権が公したときにも,国民の反発が非常に小さかったので,危惧したわけなのです。自分たちが自民党政権に騙されたわけですよね。しかし,それに対して怒るということが十分に出てこない。それからイラク戦争への参戦における,大量破壊兵器に関しても,あれはなかったということで,米国でもかなりかなり問題になりましたし,イギリスではブレア政権が倒れるまでに至った。日本では,小泉政権がそういった判断をしたことについて,批判が非常に小さい。これは国民が,自分たちに対して情報が開示されないということの民主的な問題点です。やはりメディアがそこの所をはっきりしていただいて,まさにそれが民主主義の本質なのだということをより謗法して頂きたいし,今回この余りにも粗雑な立法が出て,国民の危惧はかなり出てきたのではないかと思っていますけれどね。政治家の方々には見誤らないで頂きたいと思います。

佐藤学 :  そろそろ時間なのですが,よろしいでしょうか。なおですね,今後、こちらの情報については。そこに事務局のアドレス等がございますので,ご質問頂ければと思います。12月3日夕刻になろうと思いますが,第二次の賛同人の発表と記者会見を行います。また正確な時刻と場所についてはお伝え致します。では,今日はどうもありがとうございました。
(終わり)


New York Times の特定秘密保護法案衆院通過についての記事

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New YorkTimes は11月29日に「秘密保護法案によって日本は戦後の平和主義から離脱するのか」という記事を掲載しました。さきほどツイッターに紹介しましたけれど、アメリカでの論調を知って欲しいので、ここに訳出しておきました。やや荒っぽい翻訳ですけれど、新幹線車内での仕事なので、ご容赦ください。
では。どぞ。

街頭でのデモや主要紙の批判的社説を一蹴して、日本の保守派の首相安倍晋三は秘密保護法を通過させることによって、彼の国の戦後の平和主義を逆転させることをめざす一連の法整備の第一歩を進めた。
安倍首相によれば、国家機密をより厳正に管理することがアメリカとの国家機密にかかわる軍事情報の共有のためには必要であると語っている。火曜日に衆院を通過したこの法案は近日中に参院でも採択される見通しであり、これは安倍氏の、日本を彼の言うところの「ふつうの国」に変えるためのステップの一つである。具体的には自衛力行使のための制約を減らし、地域においてより大きな役割を演じることをめざしている。
アメリカ型の「国家安全会議」(NSC)の創設とあいまって、この法案採決は危機における総理大臣の権限を強化することになる。
安倍氏は国家機密の厳正な管理は日本の情報保護上の穴を塞ぐために要請されたものであり、なによりもアメリカから軍事機密を提供してもらうことをめざしていると述べている。中国の国力の増大と独善的な態度硬化を前にして、安倍氏は日本をアメリカの「羽根の生えそろった」同盟国たらしめたいと願っている。
しかし、秘密保護法案はただちに反対派の集中攻撃を受けることになった。ニュースメディアと大学関係者の多くは、この法案によって強力な官僚機構がこれまで以上に国家機密指定についての広範囲な裁量権を持つようになり、もともと情報開示に消極的なことで知られている日本政府がますます情報公開を回避するようになることを恐れている。
それ以外にも多くの人々がこの法律が政府による権力の濫用をもたらすことに警告を発しており、言論の自由を抑圧することによって結果的に軍部が日本を第二次世界大戦にひきずり込むことを可能にした戦前の強権的な諸法律と比定して論じるものさえいる。
東京の上智大学のメディア法の教授である田島泰彦はこう語る。
「我が国の近代史を見ればわかるとおり、日本には言論の自由の強力な伝統が存在しません。ですから、官僚たちに彼らが望むものを自由に国家機密に指定する権限を与えてしまえば、私たちの国は中国や北朝鮮と変わらないものになるでしょう。」
法案の最大の難点は秘密の定義が曖昧かつ広範なことである。法案によると、政府諸機関の長は、外交、国防、対テロのような国家の安全にかかわる重要な情報については非公開指定をなす権限を持つ。これらの秘密を漏洩したものは10年以下の懲役刑を受ける。この量刑は現行法よりも重い。
秘密保護法は今週可決されたNSCの創設を決めた法律と一体のものとして提案された。
アナリストたちによれば、この「双子の制度」は安倍氏がめざしている一連の法律整備の第一歩である。安倍氏の長期計画の最終目的は日本の反戦的な憲法を改訂し、専守防衛型国家を高度の戦闘力を備えた国家に作り替えることにあるのだが、この点についてはいまだ日本国内では合意形成がなされていない。
「この法律的な枠組みは国家安全戦略の司令部となる新たなNSCが適切に機能するためには必須のものである」と先月の読賣新聞(安倍氏が総裁である自由民主党の代弁者である保守系紙)の社説は述べている。
衆参両院において多数派を形成している安倍氏は、日本の長きにわたる政治的麻痺状態を終らせることを約束し、言葉通り法案をわずか3週間で衆院通過させ、参院に送った。
しかし、このスピードは反対派には圧倒的な力で押しつぶされたという印象を残した。結果的に、この手続きそのものが秘密保護法案が日本のデモクラシーへ脅威になるのではないかという恐れをもたらし、日本でこれまで守られてきた、変革についての合意形成の伝統から逸脱するものだという不満を醸成している。
「衣の下に鎧が見えた」と最大野党である民主党代表の海江田万里は火曜の衆院採決後に語った。
もっとも強い懸念の声は福島第一原発の現場近くの住人たちから上がっている。浪江町の馬場町長は月曜日の公聴会(この法案についてのただ一度だけの公聴会)の席で、2年前の事故当時、放射性物質の流出の方向予測についての政府の情報隠蔽のせいで、彼の町の住民たちが知らぬままに汚染地に逃げ込んでしまったことを指摘した。さらに法律は政府の危機的状況における政府の情報隠蔽体質を強化することになるだろうと警告した。「必要なのはさらなる情報開示であって、隠蔽ではない」と町長は語った。
すでに多くの日本の第一線の作家、ジャーナリスト、学者たちが法案に対して強く反対しており、少なくとも官僚機構が秘密情報指定を恣意的に拡大することについてのより強力なチェック確約を求めている。
だが、法律は情報の秘密指定の適切性を点検する機構の設立を定めていないし、そもそも日本にはアメリカのような他の民主国家にあるような情報に関するしっかりした法律が整備されていない。
さらに、この法律では、情報を漏洩した公務員のみならず、それを受け取ったジャーナリストや研究者も処罰の対象となる。国会議員についても、指定秘密を開示請求できるかどうか明確な規定がない。
先月の社説で、朝日新聞(読賣と並ぶ日本の日刊紙)はこの法律は国家機密の保持という要請には応えるかもしれないが、問題点がありすぎて「穴だらけ」であり、有権者を暗闇に置き去りにするものであると論じた。
「この法律は政府に情報の独占権を賦与するものである」と社説は書いている。「そして、国民の知る権利、調査する権利、さらには報道の自由に甚だしい制限を加えるものである。」
今週、議会において安倍氏は、法案は機密保持を強化するために必要なもので、国防に関する秘密漏洩や管理不全についての度重なるスキャンダルのあとに日本に対してアメリカから要請されたものであるという説明を行った。
専門家の中には法案を批判する人たちは読み違えていると述べるものもいる。現に安倍氏は野党に対して特定秘密をモニターするエージェンシーの創設を求めているではないかというのだが、そのような文言は法案にはない。法案支持者たちはまた法律が適用されるのは軍事機密やテロリストからの携帯メッセージの盗聴内容のような重要なものに限定されるとも言っている。
「この法律によって日本の秘密マネージメントのレベルはアメリカ並みになるものと思う」と東京大学教授で情報法の長谷部恭男は語る。
あが、今の場合はまさにアメリカの模倣をすることこそが重要なのではあるまいか。法案批判者の多くは、アメリカや他の国々がそれぞれの政府の秘密保持を開示する方向に向かっているときに、それに逆行する法律を通すべきではないと述べているからである。
「スノーデンによる機密情報の暴露はアメリカ人に再考を促しました」と田島教授はNSAの契約者であったエドワード・J・スノーデンに言及した。「にもかかわらず、日本はその逆の方向に走ろうとしている。」

石破発言について

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毎日新聞にこんな記事が出ていた。

自民党の石破茂幹事長は29日付の自身のブログで、国家機密を漏えいした公務員らに厳罰を科す特定秘密保護法案に反対し、国会周辺で行われている市民のデモについて「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます」と批判した。国会周辺では連日、市民団体が特定秘密保護法案に反対するデモを行っているが、これを「テロ行為」と同列視する内容で反発を招くのは必至だ。石破氏はブログで「今も議員会館の外では『特定機密保護法絶対阻止!』を叫ぶ大音量が鳴り響いている。どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはない」と指摘。「主義主張を実現したければ、理解者を一人でも増やし支持の輪を広げるべきだ」と主張した。(毎日新聞12月1日)

重要な発言である。
彼の党が今採択しようとしている法案には「特定有害行為」の項で「テロリズム」をこう規定しているからだ。
「テロリズム(政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう)」(第12条)
森担当相は国会答弁でこの条文の解釈について、最初の「又は」は「かつ」という意味であり、「政治上」から「殺傷し」までを一つ続きで読むという珍妙な答弁を行った。
しかし、この条文の日本語は、誰が読んでも、「強要」と「殺傷」と「破壊」という三つの行為が「テロリズム」に認定されているという以外に解釈のしようがない。
そして、現に幹事長自身、担当相の解釈を退けて、「政治上の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要」しようとしている国会周辺デモは「テロ行為とその本質においてあまり変わらない」と断言しているのである。
幹事長の解釈に従えば、すべての反政府的な言論活動や街頭行動は「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要」しようとするものである以上、「テロリズム」と「その本質においてあまり変わらないもの」とされる。
「テロリズム」は処罰されるが、「テロリズムとその本質においてあまり変わらないもの」は「テロリズム」ではないので原理的に処罰の対象にならないと信じるほどナイーブな人は今の日本には(読売新聞の論説委員以外には)たぶんいないはずである。
このブログでの幹事長発言は公人が不特定多数の読者を想定して発信したものである以上、安倍政権が考える「テロリズム」の定義をこれまでになく明瞭にしたものと私は「評価」したい。
石破幹事長によれば、私が今書いているこのような文章も、政府要人のある発言についての解釈を「政治上の主義主張に基づき他人にこれを強要」しようとして書かれているので「テロリズム」であるいう解釈に開かれているということになる。
私自身はこれらの言葉は「強要」ではなく「説得」のつもりでいるが、「強要」か「説得」かを判断するのは私ではなく、「国家若しくは他人」である。
特定秘密保護法案では、秘密の漏洩と開示について議論が集中しているが、このように法案文言に滑り込まされた「普通名詞」の定義のうちにこそこの法案の本質が露呈している。


12月3日の「特定秘密保護法案に反対する学者の会」記者会見

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12月3日の記者会見の様子を今回も集英社の伊藤君が文字起こししてくれました。
いつもありがとうございます。
僕は行けませんでしたが、平田オリザさんや平川克美くんや安藤聡さんも行ってくださって、たいへんな熱気で、メディアも驚いていたそうです。

では、その熱気を感じてください。(文中の強調は内田によるものです)

■2013年12月3日特定機密保護法案に反対する学者の会記者会見@学士会館■

●司会挨拶●
司会・佐藤学(学習院大学教授、教育学): 特定機密保護法案に反対する学者の会、本日2006名の学者の声明をもって、私どもで記者会見を行いたいというふうに思っております。
最初にですね。第一列に並んでいる方々のご紹介をちょっとご紹介を致します。
向かって左側から、東京大学教授,政治学がご専門の宇野重規先生。続きまして、慶応大学教授の小熊英二先生。それから専修大学教授の廣渡清吾先生。それから立教大学名誉教授の栗原彬先生。それから大阪大学教授の平田オリザ先生。東京大学教授の大沢真理先生。それから、東京大学教授の小森陽一先生であります。本日司会は、私、学習院大学の佐藤学が行います。専門は教育学です。
去る28日ですね。11月28日、私ども、特定機密保護法案に反対する学者の会として31名でございましたけれども、連名で記者会見を行いました。報道関係の方達に広く報道して頂いたことを心から感謝申し上げます。この31名はノーベル賞受賞者2人(白川英樹、益川敏英)を含む、さまざまな学問領域の中で、今日の事態に非常に危惧を抱いた学者の声として発表したわけでございます。市民としての学者の声と言った方がよろしいでしょうか。それまで、各学会等々ですね。法学界とか、あるいは政治学関係で開かれた等々の学会意見に於いてはさまざまな取り組みが行われましたけれども、学会を横断的に行うという意味で31名の声明は意味があったというように考えています。ちょうど強行採決が行われた2日後でございました。そういうこともございまして、私どもも緊迫した中で声明を発表することができました。

そのときですね。当初、率直に申し上げて予定していなかったんですが、その28日頃ですね。その当日頃から、賛同人というのがどんどんどんどんメールに飛び込むような事態になりまして、急遽、28日の場で、第二次発表を行おう、と。12月3日、本日ですね。午後4時まで、この声明に賛同する方々を募って、第二次発表を行おうということを急きょ決めまして、今日に至ったわけでございます。わずか5日間でございました。そのわずか5日間の間に、ご覧頂きますように、2006名の学者の方々、さらには、大学院生、学生多々、あるいは専門職関係の方々の市民の方々を含め、このほかに483名の方が、本日の正午までですね。賛同頂きまして、本日の記者会見に至ったわけでございます。
非常に短期間でありながら、非常に急速な声が上がっていることをまずご理解頂きたいと思います。それほど、声を上げなかった方々も含め、我々、学問に携わるものは、今日の事態に極めて危機感を抱いています
戦後最大の民主主義の危機というふうに私たちは呼んでいるわけですけれども、そういう危機感を抱いて本日に臨んでおります。なお。私どもの後ろにいる方々は、この賛同人の2006名の中から、本日一緒に列席をすることでご一緒させて頂いている方々でございます。それでは、まず、私の方から声明文を読み上げます。そのあと、何人かの方々に、発言を求めていきたいというふうに思っています。

(声明文読み上げ)*声明文は特定秘密保護法に反対する学者の会公式サイトをご覧ください。

●賛同人の見解●
佐藤学: それではですね、この賛同に、本日からですね。前回は31人の会でございましたが、本日、この場をもってですね、2006人の会というふうにさせて頂きたいというふうに思います。最初にですね、この31人にも加わって頂きました栗原彬先生の方から一言お願いしたいと思います。

栗原彬(立教大学名誉教授、政治社会学): 栗原彬と申します。わたしは政治社会学者ですけれども、学者としてよりも一人の市民としてこの法案に反対致します。その理由を申し上げます。
この法案というのは、この私たちの声明の中にもありましたように、特定秘密の範囲を無限にたてかえにすることはできる訳ですね。それで、その結果、つまり、例えばテロの抗議を巡って、昨今話題になっていますように、行政府が恣意(しい)的に、これを取り締まろうと思えば、もう簡単に取り締まりができる。そういうふうな法案である訳ですね。
これは、私たちがよく知っている山口県の上関町の上関原発を巡っての中国電力の最近の対応が、なんといいますか。行政府とか企業と、それが加害者であって、それで市民が被害者であるという、そういう構図が逆転しているんですね。これは30年間にわたって、原発立地に反対してきた人たちがいる訳ですけれども、その中から4人の市民を選んで、それを裁判に訴える。つまり企業が、工事を妨害したと、そういう理由をくっつけてですね。異議申し立てをする市民を訴訟に持って行く。こういう逆転現象ですね。これをスラップ訴訟というふうにいう訳ですけれども、これと同じ事がこの本案によって行われようとしている。
それで、監視されるべきなのは、行政府であるのに、逆に、市民が、とりわけ、異議申し立てをする市民が、取り締まりの対象になっていく。そういう逆転が行われている訳ですね。しかも上関原発のように、訴訟に持って行かなくても、取り締まりができるという、ですね。そういう恫喝(どうかつ)的なものです。
実際、これは公聴会の意見を無視する、それから国際的な人権団体の異議申し立てを、また無視する。これはある意味では当然であります。なぜならば、そういう市民の意見を聞いて、行政府が自分たちの政策を変えていく、法を変えていくというふうなことではなくて、逆にこの法っていうのが、が市民を取り締まる。そういう方向に向かっている。そういう逆転した法って言いますか、そういうものですね。
これは現代の治安維持法です。つまり、これは、やっぱり治安立法なんですね。治安立法なんですよ。それで、しかも、これはナチの全権委任法に限りなく近いんです。つまり行政府が、これが特定秘密だ。これは特定秘密に触れているというふうに判断すれば、何でもそれが取り締まりができるっていうね。ちょっとものすごい法な訳ですね。
こういうふうな法を認める訳にいかない。市民として、この異議申し立て、デモンストレーションとか意見表明っていうのはですね。こういう公的に認められている市民参加の、私たちの権利の一端なんですよね。これが取り締まりの対象になるような、こんな法なんて冗談じゃないと言えます。私は、これは反対です。

佐藤学: それでは宇野重規さん。次にお願いします。

宇野重規(東京大学教授、政治学): 私は、このような場に立つ資格はないものと思っておりますが、2000人を超える全国の研究者と共に、声を上げたい、意思表示をしたいという一念で、この場に参りました。私は政治学者です。政治学者としていろいろな問題点に関してより個人的に意見を持っておりますが、必ずしもこういう形で意思表明をしようとは思いません。ただ、私、今回に関しては、これは政治、あるいは民主主義の基盤そのものを危うくしかねない。こういうものを座視するならば、それは政治学者として自らの任務を座視することになると思って参りました。
今年になって私は、差別撤廃の東京大行進というヘイトスピーチに対抗するデモにも賛同致しましたが、あれは、要するに民主政治に於いて、所属、意見の違いのある人間を認めない、おまえはいなくなれ、という。これは民主政治の基本ルールの違反である。これを許す訳にはいかない。
そして今回、この特定機密保護法案とはまさに政治における、あえて言えば政治における真実というのは、どのようにして明らかにされねばならないのか。さらに三権分立。こういう政治における基本的な土台がこの法案によって危ぶまされるのではないのか。そのような危惧をどうしても私は否定することができません。政治において、秘密が必要だ。すべてを公開することはできない。このように政治家は言います。確かに、少なくとも同時代的には公にできない、そういうような秘密もあるのかもしれません。
しかしながら、私は、これは極めて限定的に解釈されるべきだと思っております。これが無限に解釈されたとき、市民が政治を判断する上で最も重要な情報、これが市民に与えられない。そのような中で政治に意思決定を行われるということは、我が国の歴史を振り返るまでもなく、大きな不幸の原因となろうとしている。その意味で、無限に秘密を拡大することは許されない。さらにそれは、仮に同時代的には公開できないとしても、それは歴史の中で必ず検証されねばならない。その意味で、果たして、この法案を推進する政治家たちが、自らが歴史において、裁かれる。歴史という法廷の前に立つ。それぐらい、どうしても秘密にしなければいけない。自分は政治的生命を賭けても、そう判断する。それだけの覚悟があって、やっているのか。そうではなく、ただ、普通にやっていればいい。当たり前のことをやっていれば処罰されない。こういうふうに、多くの政治家は言います。しかし私は何が普通か、何が当たり前かを、政治家によって判断されたくはありません
もう一つ、権力分立です。私は特に政治学の中の政治思想史を研究しております。政治思想史を研究している人間として、権力というものは、他の権力によってチェックされない限りかならず暴走する。この政治学の教えを大切に思っております。
今回の法案、もしこのまま通りますと、一つ目はまず、立法権の側からによる、例えば国政調査権、あるいは議会に於いて秘密をもし明らかにした場合、それに対する議員の付帯特権を含め、果たして立法権が、行政権の暴走を防ぐことができるのか。行政権が秘密立法的に判断するかつ、それをチェックするシステムは行政権内部にしかない。そして最終的にそれが司法の場に於いて、果たしてもたらされるのか。そして司法の場に持ち込まれた時に、果たしてそれは、秘密という名の下に、いろいろなところが黒字で消されたままになっているのではないか。それが権力というシステムの崩壊につながりかねない。
そういう意味で私はこの三権分立というのを、昨今の風潮ではますます軽視されがちですが、大切にしたいと思っております。そのような意味でも私はこの法案は、このまま通すことを許す訳にはいかないと思っております。以上です。

佐藤学: 続きまして、大阪大学の平田オリザさんです。

平田オリザ(大阪大学教授、劇作・演出): 大阪大学の平田です。諸先輩、専門の方々を前にして、私がここに座らせていただいているのは、私が学術の世界と芸術の世界、両方に籍を置いているからだと思っております。私たち芸術家はよく、炭鉱のカナリアに例えられる訳ですけれども、悪政が広がる時、一番最初に表現の場を失うのが、私たち芸術家です
この演劇の世界に昔から道化というのがよく出てくる訳ですね。この道化っていうのは、「王様は裸だ」と秘密を、おちゃらけながら、暴いたりするのが役割なんですけれども、それで大様の癇(かん)に触れて、よく首をチョンッとはねられたりする訳ですけれども、これは道化が生きられない世の中みたいなのは、やっぱりよくない訳ですよね。そういうことは社会にどうしても必要な存在だったと思っております。
世の中の多くの方は、特定秘密保護法案、これが通ったからといってすぐに何か、その圧迫されるようなことはないだろうと思われているところもあるかもしれませんが、私は今日、大阪大学から来ておりますので、皆様もご承知のように、大阪市、大阪府は、ですね。もうこの2年間、圧政の状態にある訳です
例えば、先週ある大阪市役所の職員から、非常に厚い、長いお手紙を頂きました。便箋7枚くらいの封書です。なぜ封書なのかご理解頂けますよね。要するにもう、大阪市、大阪府に於いては、それが個人のアドレスであってもメールは検閲される可能性があると、大阪市、大阪府庁の職員は、もう萎縮をしてしまっている訳です。こういう状態がもうすでに起こっている。
これがこの、秘密保護法が通れば、これが加速されて、要するに行政で、要するに学術は芸術にあるいは表現の世界との重要な交流というのも、ほとんどなくなって、今先生方がおっしゃられた、私たちがその行政をチェックする。あるいは行政が暴走したときに、それに対して異議申し立てをする機能というのが、明らかに失われる。失われるどころか、その萌芽(ほうが)さえも、摘み取られてしまう。萎縮させられてしまう。そういう現状にある大阪の人間としては、この法案は非常に危険であると思っております。これに反対し、抗議したいと思います。

大沢真理(東京大学教授、経済学、社会政策研究): 東京大学の大沢と申します。経済学部出身の社会政策研究者です。近年では、所得格差や貧困の問題に発言をして参りました。その経験から申し上げます。つまりですね、貧困率。貧困の程度というような、権力者にとっては往々にして不都合なデータが、いかに長年の間封じられてきたかということを、身をもって痛切に知っているという立場から、やや特定秘密保護法案というスペスティックなテーマにしたら広げすぎているかもしれませんけれども、申し上げたいと思います。
それは今、平田さんがおっしゃった、窓口の、一線の役人を萎縮させ、ガードを強めさせるという事が、特定秘密というような、おどろおどろしいと、一般市民の方は思われるかもしれません。ですけれども、そのコアの秘密を取り巻いて、幾重にもいかに不都合な例だというのが封じられていくかということを知っているからでございます。
貧困率については、そもそも、「調査をするな」という圧力が研究者に対してはかかっておりましたし、国が集めた統計の中から計測をしようと思っても、その計算をするなという圧力が、公然・隠然と絶えず掛かっておりました。それから、国際機関や研究者が行った貧困率の計測に関しては、「統計が悪い」という批判、「使っている統計が間違っている」という批判が行われております。国会答弁も行われました。しかし、これは白を黒とまではいわなくても、実は緑のデータを赤と言いくるめてでも、こういう貧困問題を直視したくないということが、長年、60年以上続いてきた。この風向きが変わったというのは、民主党政権が発足をしたら一ヶ月のうちに厚生労働省が貧困率を計測して、大臣記者会見で発表をした。それから生活保護基準以下の所得しかないのに、生活保護を受けている人は、そのうち何%しかないかというようなことも、厚生省・厚生労働省は60年以上計測してきませんでしたけれども、この計測というのもやられることになりました。やっと風穴があいたと思った間もなく、今の状況ですから、こうやって一度風穴があいて、また呼び戻しという中で、一線の窓口のお役人たち。それからそのお役人たちと接触をする研究者の中でも管理的な立場にある人たちが、いかに萎縮していくかということは、もう容易に想像がつくかと思います。
このことに限らず、研究、あるいは大学教育の世界で、最近、ボトムアップよりもトップダウンというものを強く進めようという動きが、非常に急テンポで進んでいます。高等教育、それからそれと結びついて切り離せない学問研究というものに対して、非常に圧力が掛かる恐れがあるということを感じる中で、この特定秘密保護法案は何としても廃案にしていかなければならないと考えて賛同人になりました。以上です。

佐藤学:それでは、小熊英二さんです。

小熊英二(慶應義塾大学教授、社会学): 3つのことを申し上げます。
第一にこの法案は不備が多く、外交や防衛の情報を扱った実務経験者からも、これでは外交・防衛の交渉に繋がらないという批判があること。
第二に、この法案が半世紀以上を規定するにもかかわらず、あまりにも審議・議論が形式的、かつ拙速であり、議論が深まっていないこと。
第三にこの法案を運用する可能性のある政治家の方が、非暴力でのデモンストレーションをテロと同一視するような感覚でいるとすれば、運用にたいへんに不安が残ると、以上のことから反対に表明をすることに致しました。なお、(12月)5日と6日の、国会の正面の所で抗議集会が開かれる事が、外で詳細が配られますので、受け取って帰って頂ければ幸いです。

佐藤学: それではですね、続きまして、東京大学の小森陽一先生、お願いします。

小森陽一(東京大学教授、文学): 私は文学研究者です。文学研究は、なによりも、言葉を自由に使って表現する事が前提になります。そしてその事はまた、民主主義の重要な前提として、今の日本国憲法の前文の第一文で強調されていることを改めて思い起こす必要があると思います。つまり自由をもたらす恵沢を闊歩(かっぽ)するということが政府の行為によって二度と戦争の起こることのないように決意するということに繋がっている。この文脈が、私は、日本国憲法の起草の中で、最も重要な指標のひとつだ、というふうに考えています。
しかし、私どもが出した声明にもあるように、この特定秘密保護法は、取材・報道の自由、表現・出版の自由、そして学問の自由。つまり、私たちが憲法第二十一条で保障されている民主主義の一番根本にある、同時にまた、日本が戦争を遂行し続けた大日本帝国憲法下において、治安維持法が維持されていた体制において、とことん権力によってつぶされ、命まで奪われていった、そうした表現の自由を明らかに踏みにじるものだというふうに考えて、私は、文学という自らの専門の立場からも、この特定秘密保護法を断固として廃案に追い込みたいと思います。
そして何より大事なことは、3.11以降、多くの普通の人たちが、自分たちの思いが、立法府で実現されていないと思えば、直ちに立法府に駆けつけて発言をする。また行政府がきちっと自分たちの意向を代表しないのなら、首相官邸前で発言する。そして司法がおかしい判決を出したら、直ちに抗議する。こういう直接民主主義的な当たり前の行動が、行われ始めている中での、この特定機密保護法は、明らかに声を裏切っている。すべての主権者である国民を圧殺する、そういう法律に他ならないと思います。

佐藤学: それでは廣渡先生。

廣渡清吾(専修大学教授、法学): 廣渡でございます。私は法律はやっておりますので、法案を読んで、ほとんどもう、欠陥商品なので、いちいちを取り上げると、解釈にきりがない。これについては、刑事法学者の声明がすでに出ておりまして、詳細に分析をしておりますけれども、特徴的な、私が今、特に遺憾だと思っていることは、政府の活動によって政府が保有する情報、あるいは政府の活動から生ずる情報は、国民のものであるという原則が、情報公開の原則の下で確立したはずなのです。
それで、小熊さんがおっしゃったように、今、政府が外国と交渉しているとか、いろいろなクリティカルな状況の中で、秘密にしなければならない事項は、全くない訳ではなくて、あると思います。
けれども、原則と例外を逆にしてはいけないんですね。
ですから、なぜ情報公開の原則があるか。それは民主主義の基本であるからです。したがって、国民の知る権利との調和を考えながら、もし、守らなければいけない秘密があるとすれば、非常に厳格なシステムを作って、秘密の保護をはかるというのが普通の考え方です
諸外国の立法はそういう考え方を元につくられていると思います。しかし今回の特定機密保護法案は、そういう水準に全く乗らない法案であって、私は、提案すること自体が間違っている法案だと思います。
そこで、憲法の問題とちょっと引っかけてお話ししたいと思うんですけれども、一番誰が見ても問題なのは、これは処罰をする法律ですね。秘密を漏らしたり、秘密にアクセスしようとしたりする人を処罰する法律です。ですから、刑罰を科する法律です。
日本国憲法の三十一条は、法律の手続きによらなければ刑罰を科すことはできない。いわゆる罪刑法定主義の原則を定めています。これは、この特定機密保護法案はどういうシステムをそこで採ろうとしているか。行政の長が、秘密を特定すると、それで一つの犯罪構成要件ができる事になっています。国民は何が特定された秘密か、わかりません。「不特定特定秘密」です(苦笑)。したがって、これはもっぱら、国民に対する関係、あるいは国会に対してもそうですし、裁判所に対してもそうですけれども、行政、これは政府が都合の悪いことを隠すための法案になっている訳ですね。それでひとつの犯罪構成要件ができることになっています。そして、犯罪構成要件が不明確なままで処罰をしようとしている。従って、法律学者は、この法案は日本国憲法31条に違反している、というふうに言ってます
政府の活動を国民が批判的に検証するというのは、これは民主主義の基本です。ですから、情報の管理は、さっきから何度も皆さんおっしゃってるように、民主主義の基本です。従って、これにふさわしいものでなければならない。全く落第の答案だと思います。
最後にもうひとつ。この憲法違反の法案が、このまま参議院で可決され、日本の法律になったら、これは、憲法改正をせずに憲法を改正をしたのと同じことになりますですね。憲法に違反した法律が国会で通ったら、それは憲法改正しないのに憲法改正したことになります。
ちょっと話が飛びますけれども、安倍内閣が憲法9条の解釈を変えて、集団的自衛権を認めようとしています。これは元の法制局長官、歴代の法制局長官も、それは憲法9条を無視することになると。集団的自衛権を認めるならば、憲法9条を改正するのが筋であると言っています。従って、明示的に憲法を改正しないで、憲法の内容を形骸化するということに、この特定秘密保護法案も、集団的自衛権も、同じ筋道のものになると思います。実は、これが、つまり、明示的に憲法を改正しなくても、憲法を実質的に形骸化させるという道が、麻生副総理が言った、「ナチスの手口」です。以上です。


佐藤学:もう、私もひとことだけ。特定秘密保護法案が現実に発効する。そういう事態をちょっと想定してみてください。一番発効する可能性が高い状態、これは、集団的自衛権の行使です。その集団的自衛権の行使、つまり、日本の自衛隊が海外で戦争を行う、あるいは、戦争を誘発してしまう、そういう事態が生じたときに、それがいったいどういう根拠で、その判断がなされてるのか、どういう情報に基づいてなされているのか自体が、国民には知らされない。そうしますと、国民の知らないところでですね、あるいは、国民の意思決定の関わらないところで、戦争を起こすことが可能になるわけですね。また、そこに巻き込まれることが可能になるのでありまして、これは最も、今回の特定秘密保護法案の、危険性の一番頂点にある問題だろうというふうに理解しています。

それではですね、これだけの参列者がいらっしゃったものですから、全員というわけにはちょっといかないんですけれども、何人かの方で、ぜひここでとおっしゃる方、挙手いただけますか。短くお願いします。2名から3名でお願いしたいんですが。はい。所属とお名前お願いします。

●参列者意見●
タケウチ(科学者会議学会):科学者会議学会のタケウチと申します。なんか、ちょっと1年休会になって名簿には入ってませんけれども、科学者会議学会のタケウチと申します。私は、手短かに言いますが、この法案というのはですね、まさしく「亡国の法案」である。国を滅ぼす。それは3点ある。
1つとして、今まで諸先生方が言ってきましたけれども、これは民主主義を根本から否定するものであるということ。
2つ目として、多分、もしこの法案が通るということになるとすればです、なるとすればですよ、日本から離れる人がどんどんどんどん増えてくるでしょう。そういう意味の亡国です。
あと、第3点としまして、これはあってほしくはないのですが、理性ではなくてですね、数の力で、数の暴力でもって決めた法案が通るっていうことになると、理性が蹂躙されるということになります。ということは、極左と極右のですね、テロの応酬が将来出てくることが十分考えられる。これ非常に内戦状態に近いようなですね、危惧すべき状況です。この法案っていうのは、この3つの点でですね、まさしく亡国の法案であって、デモクラシーの法案ではありません。以上です。

佐藤学:それでは続いて、お願いいたします。よろしいでしょうか。ぜひ、遠慮なさ…はいどうぞ。

木下ちがや(明治学院大学非常勤講師、政治学):木下ちがやと申します。政治学を専攻しています。私はこの3年間、ずっと、脱、反原発のほうに関わってきたんですが、その視点からして、何人かの発言がありましたけど、まさに今回の法案と、そしてまぁ、石破さんの発言に対してですけども、やっとですね、この日本の社会の中で少しずつ、本当に直接、自分で声を上げていくっていうことをですね、地道に積み上がったきたわけですね。本当にそれをですね、真っ向から突き崩すっていう内容に、ますます、時間が経つごとに明らかになってくるっていうのが今の現状だと思います。本当にもうこの数週間、今、特にSNS、ツイッターが発達しまして、いろんな議論がなされてますけども、この2日ぐらい、急速にですね、この法案について危険だという(ことが)、一斉に広まってます。恐らく、この数日に渡って、マスコミの方々も、恐らく、去年の官邸前抗議のように、どんどん人が増えてくる、どんどん人が集まってくるという光景を必ず目にすると思います。ですから、そのことを絶対見逃さないで、それを、そうした民主主義というのを、ぜひこれから数日間、最後の焦点の視点で取り上げていってほしいというふうに強く要望します。

佐藤学:では、あと、おひとりぐらいということで、よろしくお願いします。

岡田憲治(専修大学教授、政治学):専修大学の岡田憲治と申します。政治学を専攻しております。短いメッセージをひとつだけ、贈らせていただきます。この会合を報道なさっている報道関係者の皆さん、マスメディアの方々は、我々の友人です。言葉を使って、世界をきちんと切り分けて、世界に何があるか、どんな問題があるか、そのことをえぐり出して、共に考えるための素材を提供する、言葉をめぐって働く友人です。あなた方が、この世の中に、なぜ存在する意味があるかということをもう一度考えて、お互い励まし合いながら、この問題をきちんと世界に伝えてもらいたいと思うし、我々もそのために協力するので、頑張ってほしいのです。以上です。

●報道機関質疑応答●
佐藤学:以上、限られた声ではございますけども、2006名の声の一端というふうに考えております。最後の発言にありましたように、まさに我々は、なぜ我々が学者でありうるのか、また学問の自由というものを欲しいのか、それはどこに由来するのかということを、本当に考えつつ、詰めた結果としてですね、今日ひとりひとりが声を上げた、というふうに私は理解をしております。それではですね、報道の方々のご質問にお答えする時間に入りたいと思います。よろしくお願いいたします。

東京新聞:東京新聞の●●●と申しますけれども、前回の会見のほうにも参加させていただきまして、あのときは出席者の皆様の名前に驚いたんですけど、今日は名前ももちろんですけど、この2000名という、この厚みに驚いておりますけれども、1週間でこの2006名の方が、こういう賛同を示されたという、過去にはちょっと思いつかない出来事だと思うんですけども、このことの持つ意味というの、特に、学者の方がこれだけ敏感に反応された、ということについての持つ意味というのを教えていただけますでしょうか。

廣渡清吾:すでに先ほどからもご発言でもありますように、学問研究の立場からすると、政府の活動を材料にしながら学問研究をする、これはもう成り立たなくなりますね、はっきり。もちろん、そういう直接的な利害関係、利害監視にあり、学者が立ち上がっているということでもあると思うんですが、私は一番大きなものは、「不安」、不安ではないかと思います。この国が、いったいどういう方向に引っ張られようとしているのか、ということについての非常に大きな不安が、これは市民も含めてだと思いますけれども、学者の中にも大きい。
皆さんご承知のように、安倍政権は4年間の間、「全権委任された。私たちが皆さんの安全を守ります。国を発展させます。ですから私たちが言うように、皆さんについてきていただければ」という発想で、今、政策を展開していると思うんですね。けれども、一回の選挙で政権が誕生したときに、政権に与えられているのは、選挙を戦ったときの公約についての信義であって、ひとつひとつの提案については、その提案の都度に、国民にきちんと説明をして、信を問うということが必要だと思います。今回のやり方は、明らかに、そういう立場を放棄して、安倍さんが「この法案は国民を守るものです」。どこで国民を守るんですか。それについて具体的な答えは聞けているでしょうか。そこに対する不安です。つまり政権の政治姿勢に対する根本的な不信が、これだけの短期間に声明が集まった一番大きな理由だと思う。
そして、直接的に、学問はもうできない。政権の活動を評価し分析し、これが社会科学の役割ですよね、基本的な。政治なんかでも本当にそうです。経済学でも同じです。先ほど大沢さんがおっしゃったように、データは取れない。政府が集めてるデータを利用できなくて、どうして政府の活動について、学問の立場から、民主主義的な調査をし、批判をすることができるでしょうか。これは、ほとんど全ての学者に共有されていて、今日は2006名でしたけれども、まだ届いていないので、この数です。多くの学者に、私たちの呼びかけが届けば、もっともっとたくさんの数が集まっています。しかしそれにしても、この短期間に2000名以上の数が集まったのは、私にとっても、とても大きな驚きで、この驚きは、いかに皆さんの今の政治の動向に対する不安が大きいのかということを、如実に示していると思います。

佐藤学:ひとこと、私のほうからも。我々学者はですね、こういうこと、政治的な…非常に苦手でございます。これほんとに、ひとつひとつですね、メールで送ったりですね、切り貼りしながら、ほんとにこの5日間はですね、不眠不休の状態でございました。その中でですね、私個人が感じたことを申し上げますと、今回の科学者、学者たちの2006名の声明、これは新しい要素を持っていると思います。政党が動いたわけではございません。学会が動いたわけではございません。皆、個人です。学者ひとりひとりがですね、ひとりの市民として、また、学問に携わる者の良識として声を上げたということでございます。今も届いていると思います。そのような形で、これほどのですね、声が上がったことを重く受け止めていただきたいというふうに思います。続いてご質問をお願いします。

毎日新聞:毎日新聞の●●●と申します。この問題をですね、我々も伝える上で、非常にやっぱり、先ほども何度かお話出ましたけど、自分の生活に関係のあることかどうかっていうところで、なかなか、こちらも表現するのが難しいし、なかなかまだ伝わりきってないという感じを受けてるんですけども、その辺りを、先生方はですね、ごく普通の生活をしている方に対して、なんていいますか、呼びかけるとしたら、どういうふうに呼びかけられるかなと思いまして、その辺りを聞かせてください。

佐藤学:それでは、これはですね、文学とか、やっぱり演劇とかの世界の方にお伺いすればいいと思うので、まず小森先生、それから平田先生に。

小森陽一:この前も記者会見で申し上げましたが、私たち主権者である国民が、国家権力に縛りを掛けるための最も大事な情報、つまり、国家の情報が隠蔽される法律なんです。だから「国家情報隠蔽法」だというふうに捉えなければならないし、隠蔽された瞬間、私たちは主権者じゃなくなるということですね。だから、国民の主権者性を抹殺する法律でもある。じゃ、平田さん。

平田オリザ:もう冷戦の時代ではありませんので、オール・オア・ナッシングではないと思うんですね。今回のことに関しては、相当保守派とみられていた方たちでも、相当の、この法案に対して疑問を持っていらっしゃる。で、2つ、やはり分けて考えたほうがいいと思うんです。確かにこの法律がですね、戦前の治安維持法のように、ものすごく圧政で機能するのは、「ない」かもしれないし「ある」かもしれない、としか言いようがない。で、それが「ない」ように、望むしかないわけですけれども、しかし「ある」可能性がある。
しかしですね、先ほども申し上げたように、現実にはですね、真綿で首を絞めるようにですね、公務員たちの、まず、表現あるいは、データの出し方っていうのを、もう鈍るっていうことを、もう大阪で実例として出てきている。そのことをですね、ぜひ実感として、持っていただきたいと。ま、これ、ほんとに関西にいないと、ちょっと分からないところがあるんですよ。もう、ほんとにね、なんというか、「ものを言えば唇寒し」って、あぁ、こういうことなんだなぁっていうのがですね。僕、たまたま東京の人間で、今、大阪にいるんで、すごく温度差があるんですよね、東京にいるときと大阪にいるときでですね。これはなかなか伝わりにくい。ほんとに、マスコミの方にもですね、ご苦労があると思うんです。マスコミの方もですね、多分、大阪市長の方たちから、そういう話を聞いてると思うんですね。「嫌~な感じ」。「嫌~な感じ」としか言いようがない。そしてすごく高圧的に。
ま、今でこそね、もう橋下さん、そんなに力ないですけれどもね。2年前、皆さん、ひどい目に遭ったわけでしょ。それを思い出していただきたいんです。どんなふうに封殺されたか。どんなふうに恫喝されたか。あれが合法的になるんです。局所的なことではなく、国政で当たり前のようなことになるんです。それがいいんですか?っていうことなんだと思います。なかなかこれがですね、そうなってみないと実感ができないものなので、まさに、それをなってみないと実感ができないことを表現するのが、私たち芸術家の仕事ですから、それはもう、私たち芸術家にも責任があると思ってます。

佐藤学:では続きまして、ご質問…。

集英社:集英社新書の●●と申します。前回も参加させていただき、非常に危機感を持ったんですけれども、司法に、違憲立法審査権というのがありますね。ちょっと考えたくはないんですけど、仮にこの法案が、通ってしまった場合に、事後闘争的な話ですけど、違憲立法審査権は、どの程度この法律に対する国民主権の防波堤になりえるとお考えでしょうか。以上です。

宇野重規:私、今回の法案が仮に参議院通ったとしても、それで終わりではないと思っております。おっしゃるように、このあとには違憲立法審査権を通じて、憲法違反ということで、この法律を問うチャンネルが残っていると思っております。もちろん、現実にこのまま法案が違憲の判決を受け、無効になる可能性がどれだけ大きいか、と言われれば、(…)としません。しかしながら、チャンネルは少なくとも開かれていると。これが残ってるとされてる以上、ありとあらゆる手段を通じてでも、この法案を廃案に追い込む、これは、長いプロセスだと思っております。
もちろん、これ、法律をつくる側も、そんな危険立法はないんだと言っております。しかし、長い時間経っていけば、どういう人間がこの法律を使うか分からない。要するに、今回の問題というのは、短期間で決着のつく問題ではないと思っております。もちろんこれで廃案に追い込めれば一番いいわけですけれども、仮に廃案になったとしても、また違う形で入れてくるかもしれません。そういう意味で、いずれにせよ、これは長期的な形で問題にしていかなければいけないと思っております。

廣渡清吾:実際に考えて、自公が多数派を占めていて、その自公、与党が提案した法案ですから、何もなければ通る、ということになってしまいそうなので、大変遺憾なんですけれども、今のご質問は、「通ったらどうなるのか」っていうことですよね。通ったら、この法律が発動できないようにする、っていうしかない
発動できないようにするっていうのは、国民がこの法律にどれだけ多くの批判を持っているかっていうことが示されなければならない、と思うんです。
ですから、今日、今日まだ法案が通ったわけではありませんから、このあとも、どれだけ多くの批判が国会の審議に対して寄せられるかということが、ひとつの決定的なポイントだと思います
で、もし通って、この法律が適用されて、具体的な案件が裁判所に掛けられ、機密を漏らした、機密に不法にアクセスした、ということで、刑事事件になる。そのときには当然、被告は、この特定秘密保護法が憲法違反であるというふうに争うことになると思います。そうすれば、裁判所はどうするか。特定の審議になったときにですね、「じゃ、どういうことが秘密であるの」という話になる。これは非常に形式的な話だけど、「特定したら秘密だ」と言ってるわけです。「じゃ、どういう秘密を特定したのか」って、「裁判所の前に出しなさい」っていうふうに行政機関の長が言われたときに、「いや、これは出せません」。あるいは、出すとしても、「これこれこれ、こういう内容のフォームで、こういう内容のものです」と言って、具体的にその文章を出すか出さないかっていう争いになると思います。
元最高裁判事の方は、そのときに「インカメラ審査」つまり、裁判所にだけはそれを見せる、その情報そのものを裁判所にだけは見せる。裁判官はそれを見て、本当にこれは法律に基づいて特定するに値する秘密なのかどうかを、裁判所が判断する、ということがなければ、裁判所では審理ができませんが、特定秘密保護法案は、それを裁判所に保証していません。裁判所がそういう権限を持つということを保証していません。ですから、「特定した」ということだけによって、「犯罪だ」とされて処罰されるという可能性があるので、これは罪刑法定主義違反の法律だと言ってるんですけれども、実際にとても困難な戦いになるかと思いますが、でも結局は最終的にこの法律が通ってしまえば、そういう戦いを国民の側でやって、具体的にこの法律が効力を持たないように追い込むしかないと思います。

佐藤学:一度通ってしまえば、法案をですね、無効化するのは大変な戦いになると思うんですね。その意味で申し上げますと、現段階ではですね、(12月)6日に会期末になるってことは絶対に許さない、そういう状況を刻々とつくりあげていくしか方法はないというふうには考えています。続けてお願いいたします。

NHK:NHKの●●といいますが、もう、ひとつのグループというふうには括(くく)れないぐらいの大きな、本当に大変な規模になっていらっしゃると思うんですけど、具体的に今後、おっしゃっていることを実現するためにですね、皆さんとして、皆さんという…どうか…ちょっと括…そういう個々にですね、もちろんいろいろ発信されるところではあると思うんですけども、ご予定というか、考えてらっしゃることはありますか。お願いします。

佐藤学:現在ですね、この特定秘密保護法案に反対する学者の会、申し上げましたように、当初は31名。これだと合議が可能だとなったんですね。もちろん、このように2006名になるにあたっては、合議の上でなっております。31名全員が加わっております。今後のことでございますけれども、これは、この声明の一点で一致している。これですね。この声明に、皆で一致したということでございますので、その限りにおいて行動する、となったんですね。例えばですね、仮に万が一、今度参議院での採決が行われたとするならば、直ちにこれは抗議声明として2006名、もっと増えてくると思いますが、ここまでは皆さんもご協力してくれると思うんです。ですから、私どもとしては、現在、現段階で、現在も届いてると思いますが、どんどんね、数が増えてると思いますが、引き続きですね、この、何名、学者何名のアピールというものを、様々な手段を通じてですね、社会的にアピールするっていうふうに、万が一ですね、採決がなった場合には、その時点で抗議声明を出します。そこまでは考えております。

信濃毎日新聞:すみません、長野県の新聞社で信濃毎日新聞の記者の●●と申します。お伺いしたい点なんですが、一般の市民の方が、例えば反対したいというふうに考えていても、実際に、「じゃあ、どうすればいいんだよ」と、取材をしていて聞かれることが多いんですが、結局、デモやインタビューなんかの形を紙面で掲載することが多くなってしまって、読者のほうとしても、ちょっと飽きられてしまうというのか、またこういう形かというふうになってしまうんですが、その点で、皆さんのほうで、こういうふうに疑問を持った方は、こういうふうに行動したらいいんじゃないか、というような形を、紙面を通して読者の方に助言などあればお願いしたいんですが、よろしいでしょうか。

小熊英二:地元の議員の方の事務所に行ってください。議員さんは、有権者を非常に気にしておられます。地元の議員の事務所に1人でも2人でも、20人30人ならもっと効果があると思いますが、それで、「この法案について、どうお思いなんでしょうか」と。所属政党はともかくとしても、個人としてどうお考えになっていて、お考えを聞かしていただいた上で、「あなたはどう行動なさるおつもりですか」と聞いてみるのが一番早いと思います。

佐藤学:私どもがいい例だと思うんですね。先ほど言いましたように、こういう行動をほとんどやったことのない連中がみんな集まりながら、これまでも何回かは私もセミナー出たことはありますが、これほどの形は取ったことがございません。そこで言えることは、この学者の会と申しますか、実はこの学者の会をモデルに、今あちこちで学者の会とかですね、市民の会とか、なんとか市民の会とかですね、いうのがブログで立ち上がっていて、同じような行動が起こったというのは聞いております。ですから、声をですね、ひとつにつくりあげていくっていう様々な方法があるのだということを、私たちは身をもって示したというふうにご理解いただければと思います。

栗原彬:やはり、地元でデモンストレーションをやる、これはかなり意味があると思います。一昨日、吉祥寺でそういうデモがあったわけですけどね。そういうところで市民の、街の方たちに、これは、「大音量で迷惑になってますか?」、とか、「このデモで恐怖を感じましたか?」って。誰ひとり「恐怖感じました」なんて、ひとりもいませんでした。多分、石破さんだけなんでしょうね、恐怖感じるのは。てことは、何かやっぱり、デモについて後ろめたいことがあるんだなぁっていうふうに思いましたね。実際やっぱり、あちらこちらで、やはり地方でも今はデモンストレーションが起こってるわけでしょ。そういうことが、やっぱり、この法案に反対するっていう、アンケートを取ってみれば、そういう数字になって跳ね返ってくるわけで、これはやはり、メディアの方がやっぱり、それを伝えていただくことがかなり大事なことですけれども。そういうふうにして、市民レベルでね、この反対が拡大していくっていうことが非常に大事だと思います。

佐藤学:おひとり手が上がった。はい、お願いします。

東京新聞:東京新聞の●●です。先ほど、選挙の公約の話が出ていたんですけれども、自民党は衆院選でも参院選でも、国家安全保障会議については、小さく触れてますけれども、秘密保護法案については全然触れていなくて、選挙が終わって半年も経たないうちに、国のありようを大きく変えるような法案について、いきなり出してくるということについての問題点を、ちょっと改めてご指摘いただければと思うんですが。

宇野重規:ご指摘の通りだと思います。しばしば国会議員さん、議会の人というのは、議会外での発言に対して、よくナーバスになります。「自分たちだけが民意を代表して法をつくる権限があるのである」と。「自分たち以外の回路でものを言うのはけしからん」と言うことはしばしばあります。しかしながら、人々は、市民は、みずからの意見を常に表明する権利があります。まして、今ご指摘のように、本来、特定秘密保護法案というのは、何ら公約にも入っていなかったこのような民意を、現在の議員に託した覚えはない、というのが、我々市民の素朴な感想です。そのような意思を表明することは当たり前のことであって、「このような授権をした覚えはない」と。このことを強く示すことのほうが、代議制民主主義をよりよく機能させるものであると思っております。

佐藤学:もう、予定の時間、そろそろ来てるんでございますけれども、ほかにご質問あれば、遠慮なく。

集英社クリエイティブ:集英社クリエイティブの●●といいます。昨日・一昨日の答弁を、国会の答弁を聞いていますと、森(雅子・特定秘密保護法案)担当大臣が、必ず、「これは重層的な仕組みが設けられていて、恣意的な指定とか拡大解釈を許さない」と。そのときに必ず言われるのが、「有識者の意見を聞く」という言葉があります。それで、この2006名の学者としてですね、ここにいらっしゃる方、有識者の方々だと思いますので、それに対して、ひとこと、お聞かせ願えますでしょうか。有識者会議っていうのが、本当に機能するのか、ということです。

廣渡清吾:有識者の意見を聞くというのは、特定秘密、どういうものを特定秘密にするか、といったようなことについて、これ、行政機関の長が勝手にやるんですよね。だから、防衛大臣が勝手にやるし、外務大臣がやるし、警察庁長官がやるんです、勝手に。でも勝手にやられたんじゃ、全体の見通しが利かなくなるので、一応、こういう基準で特定秘密をしなさい、という基準づくりを有識者に聞くと言ってるだけです。じゃあ、有識者会議がその基準通りに特定秘密が特定されているか、ということを審査する権限も何もありません。ですから、そういう意味では、「権威付けをするだけ」の「有識者への意見を聞く」と。つまり、「目くらましのものであって、実効性はない」と。というふうに思います。ですから、「第三者機関をつくれ」という民主党からの意見が出てるんですけれども、これも、政府の外にちゃんと第三者機関をつくるわけではなくて、そこは非常に曖昧にしていますね。「内閣総理大臣がチェックをするときのアドバイスをするための機関です」とか、いろいろ言ってるので、これも極めて曖昧。もし第三者機関をつくるとしたら、法案を撤回して、新しい法案の中にきちんと第三者機関を明示すると、すべきだと思います。

佐藤学:ほか、いかがでしょうか。それではですね、またいろいろご質問がある場合は、こちらの連絡先書いておりますので、いろいろお問い合わせいただければ、我々の担当、個人個人が、それぞれ多様な意見はもちろんあるわけでございますけれども、お答えしていきたいというように思っています。なおですね、この2006名の意味、繰り返しになりますけど、非常に大きいということをご理解ください。ノーベル賞受賞者が2人、芥川賞受賞者の学者の方も含まれております。さらに、国公私立大学の学長の方々も含まれております。そういう広範囲な方々が、この2006名の中に加わり、さらにですね、本来学者ではない、多分取り上げてもらえないんだろうと思いながらも、賛同人の中に加わられた方が483名いらっしゃいます。本日、また列席された方々、私どもとしては30名も列席していただければですね、本当に最高だというふうに思いながら、列をつくったんですけど、ご覧ください。満席でございます。49名ならびに、その学生たちですね、が7名参加されているそうでございます。このような形で、今日の記者会見ができたこと、また、報道の方々も前回に増してですね、2倍3倍という方々に来ていただいたことを厚く御礼申し上げます。
最後でございますけども、まだ日がございます。我々学者の良識、あるいは、今日おいでいただいた報道関係の方々のジャーナリストとしての良識、これを束にしてですね、この事態に向かっていきたいというふうに今は考えております。今後ともですね、我々と報道関係の方々が友好的かつ協力的にですね、こういう問題を議論しあえる、そういう場を考えて、連帯をつくっていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いします。今日はどうもありがとうございました。(おわり)

特定秘密保護法への抗議声明

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下記の抗議声明への賛同人を募ります。

特定秘密保護法案の強行採決に抗議する賛同人を募ります。
賛同人が5千人に達した段階で記者会見を行う予定です。
なお、すでに賛同人になっている方は、改めて登録する必要はありません。
また、今後、この会の名称は「特定秘密保護法案に反対する会」から「特定秘密保護法に反対する会」に改称いたします。ご了承ください。

抗議声明

特定秘密保護法の衆議院・参議院における強行採決に強く抗議します


 特定秘密保護法案は、憲法の定める基本的人権と平和主義を脅かす立法であり、日本の民主主義を戦後最大の危機にさらすものです。この法案に対して広く市民の間に反対や懸念の声がかつてなく広がったにもかかわらず、審議を尽くさないまま衆議院にひきつづき参議院においても強行採決が行われたことに、私たちは深い憂慮と強い憤りを覚え、この暴挙に対する抗議の意思を表明します。
 特定秘密保護法は、指定される「特定秘密」の範囲が政府の裁量で際限なく広がる危険性を残しており、指定された秘密情報を提供した者にも取得した者にも過度の重罰を科すことを規定しています。この法律によって、市民の知る権利は大幅に制限され、国会の国政調査権が制約され、取材・報道の自由、表現・出版の自由、学問の自由など、基本的人権が著しく侵害される危険があります。さらに秘密情報を取り扱う者に対する適性評価制度の導入は、プライバシーの侵害をひきおこしかねません。
 民主政治は市民の厳粛な信託によるものであり、情報の開示は、民主的な意思決定の前提です。特定秘密保護法は、この民主主義原則に反するものであり、市民の目と耳をふさぎ秘密に覆われた国、「秘密国家」への道を開くものと言わざるをえません。
 さらに、特定秘密保護法は国の統一的な文書管理原則に打撃を与えるおそれがあります。公文書管理の基本ルールを定めた公文書管理法が2011年に施行され、現在では行政機関における文書作成義務が明確にされ、行政文書ファイル管理簿への記載も義務づけられて、国が行った政策決定の是非を現在および将来の市民が検証できるようになりました。特定秘密保護法はこのような動きに逆行するものです。何が何でも特定秘密保護法を成立させようとする与党の政治姿勢は、思想の自由と報道の自由を奪って戦争へと突き進んだ戦前の政府をほうふつとさせます。
 いったい今なぜ特定秘密保護法を性急に立法する必要があったのか、安倍首相は説得力ある説明を行いませんでした。外交・安全保障等にかんして、短期的・限定的に一定の秘密が存在することを私たちも必ずしも否定しません。しかし、それは恣意的な運用を妨げる十分な担保や、しかるべき期間を経れば情報がすべて開示される制度を前提とした上のことです。行政府の行動に対して、議会や行政府から独立した第三者機関の監視体制が確立することも必要です。
困難な時代であればこそ、報道の自由と思想表現の自由、学問研究の自由を守ることが必須であることを訴えたいと思います。そして「秘密国家」・「軍事国家」への道を開く特定秘密保護法案の衆議院と参議院の両院における強行採決に、私たちは学問と良識の名において強く抗議します。


2013年12月6日

(アピール賛同者は現在3500人を越えております。とりあえず5000人を目指して賛同者を引き続き募っております。ご協力を重ねてお願い致します。)

                 


ほか賛同人●●●名(学生・院生・市民)
  

「街場の憂国論」号外のためのまえがき

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みなさん、こんにちは。内田樹です。
『街場の憂国論』に「号外」として、特定秘密保護法案審議をめぐる一連の書き物をまとめて付録につけることに致しました(安藤聡さんからのご提案です)。
単行本に付録をつけるというのは珍しいことですけれど、今回の法案審議をめぐる政治の動きについて、僕たちはそれだけ例外的な緊張感を持ってしまったということだと思います。

改めて言うまでもないことですが、この法案は、2012年暮れの衆院選でも、2013年5月の参院選でも、自民党の公約には掲げられていなかったものです。それがいきなり9月に提出されて、重要法案としては異例の短時間審議で、両院での委員会強行採決を経て、会期ぎりぎりに走り込むように国会を通過してしまいました。この原稿を書いている段階で、世論調査では80%以上が国会審議のありようについてつよい不安と不満を表明しています。
なぜ、これほど急いで、法案の外交史的意味についての説明も、運用上の懸念の解消のための説得もなされないままに法案が採択されたのか、わからないという声は議員自身からも、メディアからも聞こえてきます。僕はそれはいささかナイーブにすぎる反応だろうと思います。
政権がこれほど強権的に法案採択を強行したのは、まさにこのようなものごとの進め方そのものがこれからデフォルトになるということを国民に周知させるためだったからです。
政体の根幹にかかわる法律、憲法の理念にあきらかに背く法律の強権的な採択が「合法的だった」という事実そのものが法案以上に安倍政権にとっては「収穫」だったということです。彼らはみごとにそれを達成しました。もう、これからは何でもできる。
次の国政選挙まであと3年あります。その間に政権は解釈改憲による集団的自衛権行使(つまりアメリカと共に海外への軍事行動にコミットすること)をできれば実現し、その過程でのアメリカとの交渉や密約をすべて「特定秘密」として完全にメディアからブロックするでしょう。
多くの人たちは前の民主党政権に対してしたように「自民党が暴走したら、選挙でお灸を据える」ということができると信じているようです。僕はそこまで楽観的になれません。そのような自由な選挙の機会がもう一度巡ってくるかどうかさえ、僕には確信がありません。
次の選挙までに日本を戦闘の当事者とする戦争が始まってしまったら、その結果、国内外で日本人を標的とするテロが行われるようなことがあったら、もう次の選挙はこれまでの選挙のような牧歌的なものではありえないからです。そして、現在の自民党政権は彼らの支配体制を恒久化するシステムが合法的に、けっこう簡単に作り出せるということを、今回の経験で学習しました。
安倍政権にこれ以上の暴走を許さないという国民の決意は「次の選挙」ではなく、今ここで、ひとりひとりの現場でかたちにする他ないと僕は思っています。
僕のこの文章が「妄想的だ」という批判はあるでしょう。そして、僕はあと3年後に、この文章を読み返して、「なんて妄想的なことを書いていたのだろう。すべては杞憂だったのに」と自分が恥じていることをほんとうに心から願っています。

コミュニケーション能力とは何か?

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土木学会というところから「コミュニケーション能力について」の寄稿を頼まれた。
9月に書いて送稿したものが活字になって今日届いた。
学会誌なので、一般読者の目に触れる機会はないと思うので、そこに書いたものを採録しておく。

「コミュニケーション能力」とは何か

就活している学生が「これからはもっとも重視されるのはコミュニケーション能力だそうです」と言うので、「うん、そうだね」と頷きながらも、この子は「コミュニケーション能力」ということの意味をどう考えているのかなとちょっと不安になった。
たぶん「自分の意見をはっきり言う」とか「目をきらきらさせて人の話を聞く」とか、そういう事態をぼんやり想像しているのだろうと思う。
もちろん、それで間違っているわけではない。でも、どうしたら「そういうこと」が可能になるかについてはいささか込み入った話になる。
例えば、どれほど「はっきり」発語しても、まったく言葉が人に伝わらないときがある。
個人的な話をする。
何年か前にフランスの地方都市に仕事でしばらく滞在したときの話。スーパーに行ってマグカップを買った。レジに行ったら、女性店員に何か訊ねられた。なんとなく聞き覚えのある単語なのだが、意味がわからない。「え?何です?」と聞き返してみたが、それでもわからない。二度三度と「え?」を繰り返しているうちに店員は諦めたらしく、肩をそびやかしてマグカップを包みだした。
どうも気持ちが片づかないので、カップを手渡された後に、レジの上に身を乗り出して、ひとことひとことゆっくり噛みしめるように「さきほど、僕に何を訊いたのですか?」と問いかけた。
すると店員もゆっくり噛みしめるように「郵便番号を訊いたのだ」と答えた。「なぜ、郵便番号を?」と重ねて訊くと「どの地域の人がどんな商品を買っているのかデータを取っているのだ」と教えてくれた。
 郵便番号(code postal)というのは基本的な生活単語である。もちろん私も知っている。でも、それがスーパーのレジでマグカップを買うときに訊かれると、聞き取ることができない。ふつうレジで訊かれるはずの質問のリストの中にその単語が存在しないからである。

これはコミュニケーション不調の一例である。一方において意味が熟知されたこと、当然相手も理解してよいはずのことを口跡明瞭に発語しても、相手が聞き取ってくれないことがある。文脈が見えないからである。「スーパーのレジでは買い物に際して顧客情報をとることがある」という商習慣を知っていれば、文脈がわかる。知らなければ、わからない。
このときに私が肩をすくめた女性店員に向かって、あえてレジに身を乗り出して、ひとことひとこと区切って発語したことで、意味のわからない単語の意味が明かされた。これが「コミュニケーション能力」である。そういうことを顧客はふつうレジのカウンターではしない。
店員は私がフランスの商習慣になじみのない外国人であることを察知して、なぜマグカップを買うのに郵便番号を訊くのか、その理由を教えてくれた。そういうことはふつうレジのカウンターで店員はしてくれない。私は彼女が私のためにこの説明の労をとってくれたことを多とする。これが彼女の側の「コミュニケーション能力」である。

つまり、コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力だということである
それは今の例でおわかり頂けるように、「ふつうはしないことを、あえてする」というかたちで発動する。私たちは二人それぞれに「客や店員がふつうはしないこと」をして、それによって一度は途絶しかけたコミュニケーションの回路は回復した。
「ふつうはしないこと」は「ふつうはしないこと」という定義から明らかなようにマニュアル化することができない。それは臨機応変に、即興で、その場の特殊事情を勘案して、自己責任で、適宜、コードを破ることだからである。
そして、コードを破る仕方はコード化できない。当たり前のことである。
同じような例をもう一つ。これもスーパーで買い物をしたときの話(今度は日本。スーパーのレジというのはどうもコミュニケーション不調の多発地点のようである)。
夕食の材料を買い込んでお金を払おうとすると若い男の店員に「ホレーザ、ゴリヨスカ」と言われた。意味がわからないので、「え?」と聞き返した。店員は同じ言葉を同じ口調で繰り返した。三度目で、それが「保冷剤、ご利用ですか?」だということがわかった。
同じような「聞き取りそこね」は日々各所で多発していると思う。でも、考えてみれば、このコミュニケーション不調は、客に聞き返されたときに、例えば「傷みやすい食材を冷やすために、保冷剤お入れしますか?」と言い換えれば済むことである。「冷やす」という語が先に来れば、彼の滑舌の悪い「ホレーザ」が「保冷剤」であることはおおかたの日本人にはわかる。その手間を惜しんだところに彼のコミュニケーション能力の低さが露呈している。
でも、これを彼の属人的な資質の問題と言い切ることはできない。
おそらくそのような「言い換え」を必要に応じて店員が自己責任でしても構わないということはこの店の「商習慣」にはないのである。
わが国には店員たちが顧客に対して自己責任でコミュニケーションを取ろうとすることを忌み嫌う商文化がある。チェーン店というのはすべてそうである。そんなことをされると現場の秩序が乱れると信じている人たちが管理部門にいるのである。
こういう店のマニュアルを書いている管理職は顧客と店員の間で取り交わされる対話はすべて予見可能であり、店員はそこに指示された以外の言葉を口にすべきではない、日本中どこのチェーン店でもまったく同じ応答がなされることこそが真のサービスだと信じている。
これこそ私たちの社会に取り憑いた「コミュニケーション失調」の主因の一つだと私は思っている。

大学を辞めたのでもうセンター入試の試験監督というものをしなくてよくなった。これが私にとっては退職したことの最大の喜びである。
監督者は事前に1センチほどの厚さのマニュアルを渡されて、それを熟読し、そこに書かれている通りに入試業務を進行することを求められる。私は退職前には入試部長という職にあったが、私が読むことを求められた「責任者用マニュアル」は全6冊、片手では持てない厚さと重さだった。
その中で、年々頁数が増してゆくのが「トラブル対応マニュアル」であった。
「試験中奇声を発する受験生」や「『必勝』はちまきをしている受験生」や「強烈な香水をつけている受験生」をどう処遇すべきかが書いてある。前年版からの増加分は「前年にどこかの会場で本当にあった事例」だということである。このペースで毎年改定を続けてゆくと、やがて「トラブル対応マニュアル」だけで数百頁、重さ数キロの物量になってしまうことに誰かが気づいて、「センター入試はもうやめよう」ということになったのではないかと私はひそかに疑っている。
この笑えない事態は、日本中の受験生に同一の環境を確保するために、監督者は決してマニュアルに書いてあること以外の言葉を試験会場では口にしてはならないし、想定外の出来事に自己裁量で対応することもまかりならないというルールがもたらした事態である。
マニュアル主義者は「想定外の事態に遭遇した場合にも、現場で自己裁量することは許されない」と深く信じ込んでいる。現代日本のシステムがことごとく機能不全に陥っているのは、私の見るところ、この病的なマニュアル主義のせいである。
「臨機応変で事態に処することのできる力」は生物にとって必須の能力であり、それを涵養することが教育の本務であるという合意は私たちの社会にはもう存在しない。求められているのは「すべてを列挙した網羅的マニュアル」の整備と、「決して自己決定しないで、逐一上位者に諮って、その指示を待つ」人間の育成である。
まことに愚かなことと言わねばならない。この病が蔓延したことによって「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」という人間が生き延びるためにもっとも必要な力が致命的に損なわれたからである。

わが国のエリート層を形成する受験秀才たちはあらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する仕事には長けているが、正解が示されていない問いの前で「臨機応変に、自己責任で判断する」訓練は受けていない。むしろ誤答を病的に恐れるあまり「想定外の事態」に遭遇すると、「何もしないでフリーズする」方を選ぶ。彼にとって「回答保留」は「誤答」よりましなのだ。だが、ライオンが襲ってきたときに「どちらに逃げてよいか、正解が予示されていないから」という理由でその場に立ち尽くすシマウマは最初に捕食される。だから、秀才たちに制度設計を委ねると、その社会が危機を生き延びる可能性は必然的に逓減する。

今回私に与えられた課題は「土木技術者対社会といった、立場が大きく異なる者同士が互いに分かり合えずにいる現状」にどう対処したらよいのかについて原理的な考察を加えて欲しいというものであった。ここまで読まれたら、私からの提言はもうおわかり頂けたであろう。
「立場が大きく異なる者同士が互いにわかり合えずにいる」のはそれぞれがおのれの「立場」から踏み出さないからである。「立場」が規定する語り口やロジックに絡め取られているからである。「わかり合う」ためには「立場」が定めるコードを適宜破ることが必要だというコミュニケーションについての基礎的知見が共有されていないからである。
「あなたは何が言いたいのですか。わからないので、しばらく私の方は黙って耳を傾けますから、私にわかるように説明してください」と相手に発言の優先権を譲るというのが対話のマナーであるが、このマナーは今の日本社会では認知されていない。
今の日本でのコミュニケーションの基本的なマナーは「自分の言いたいことを大声でがなり立て、相手を黙らせること」である。相手に「私を説得するチャンス」を与える人間より、相手に何も言わせない人間の方が社会的に高い評価を得ている。そんな社会でコミュニケーション能力が育つはずがない。

「相手に私を説得するチャンスを与える」というのは、コミュニケーションが成り立つかどうかを決する死活的な条件である。それは「あなたの言い分が正しいのか、私の言い分が正しいのか、しばらく判断をペンディングする」ということを意味するからである。
ボクシングの世界タイトルマッチで、試合の前にチャンピオンベルトを返還して、それをどちらにも属さない中立的なところに保管するのに似ている。真理がいずれにあるのか、それについては対話が終わるまで未決にしておく。いずれに理があるのかを、しばらく宙づりにする。これが対話である。論争とはそこが違う。論争というのはチャンピオンベルトを巻いたもの同士が殴り合って、相手のベルトをはぎ取ろうとすることである。
対話において、真理は仮説的にではあれ未決状態に置かれねばならぬ。そうしないと「説得」という手続きには入れない。
「説得」というのは、相手の知性を信頼することである。
両者がともに認める前提から出発し、両者がともに認める論理に沿って話を進めれば、いずれ私たちは同じ結論にたどりつくはずだというのが「説得」を成り立たせる仮説である。
「私が正しく、お前は間違っていた」という事態と「あなたは私の意見に合意した」と事態は、遠目で見ると、ありようは似ているが、アプローチが違う。
説得するためには対面している相手の知性に対する「敬意」をどんなことがあっても手放してはならない。そして、先ほどから述べている「コードを破る」というふるまいは相手の知性に対して敬意を持つものによってしか担われない。
コミュニケーションの失調を回復するために私たちは何をするか。
私がスーパーのレジでしたように、「身を乗り出す」のである。相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰まっていたコミュニケーションはそこで息を吹き返す。

かつて凡庸な攘夷論者であった坂本龍馬は開国論者である幕臣勝海舟を斬り殺すために勝の家を訪れたことがあった。勝は龍馬を座敷に上げて、「お前さんたちのようなのが毎日来るよ。まあ、話を聴くがいいぜ」と世界情勢について長広舌をふるった。龍馬はたちまち開国論に転じ、その場で勝に弟子入りしてしまった。龍馬を「説得」したのは、勝の議論のコンテンツの正しさではない(龍馬には勝が語っていることの真偽を判定できるだけの知識がなかった)。そうではなく、自分を殺しに来た青年の懐にまっすぐ飛び込み、その知性を信じた勝の「誠」である。

幕末の逸話をもう一つ。
山岡鐵舟が江戸開城の交渉のために駿府に西郷隆盛を訊ねて東海道を下ったときの話。薩人益満休之助ひとりを伴った鐵舟は、六郷川を渡ったところで篠原國幹率いる官軍の鉄砲隊に遭遇した。鐵舟はそのままずかずか本陣に入り「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎総督府へ通る」と大音あげて名乗った。篠原は鐵舟のこの言葉を受け容れて、道を空けた。
鐵舟と篠原では立場が違っていた。ロジックが違い、コードが違っていた。コミュニケーションが成立するはずのない間柄であった。けれども、鐵舟はそこに奇跡的に架橋してみせた。
鐵舟はあえて「朝敵」と名乗ることによって、篠原に次のようなメッセージを送ったのである。あなたがたから見たら私は殺すべき相手であろう。私はそれを理解している。あなたの立場であれば、それは当然だろう。だが、その判断を機械的に適用することを今いっときだけ停止してはもらえまいか。判断を留保して、「目の前にいるこの男の言い分にもあるいは一理あるのかもしれない」という仮説的な未決状態を採用してはもらえまいか。現に私は幕臣であれば決して口にすることのない「朝敵家来」という名乗りをなしているではないか。私は私のコードを破った。あなたはあなたのコードを破ってはくれまいか
篠原に向かって鐵舟はそう言って「身を乗り出して」みせたのである。コミュニケーションを架橋したのは鐵舟の「赤誠」である。
私はこのような力をこそコミュニケーション能力と呼びたいと思うのである。

農政について

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JAの雑誌に農政について書いた。これもふつうの方はあまり手に取る機会のない媒体なので、ここに採録しておく。

食糧安保とグローバルビジネス

現在の日本の状況をおおづかみに表現すれば、「過経済化」という言葉で形容することができる。
すべての政策や制度の適否が「収益」や「効率」や「費用対効果」という経済用語で論じられている事態のことである。
経済を語るための語彙を経済以外の事象、例えば政治や教育や医療のありかたについて用いるのは、用語の「過剰適用」である。
むろん、ある領域の術語やロジックがそれを適用すべきでない分野にまで過剰適用されることは、歴史的には珍しいことではない。過去には宗教の用語がそれを適用すべきではない分野(例えば外交や軍事)に適用されたことがあった(十字軍がそうだ)。政治の用語がそれを適用すべきではない分野(例えば文学)に適用されたことがあった(プロレタリア文学論というのがそうだ)。
人間はそういうことをすぐにしてしまう。それは人間の本性であるから防ぎようがない。私たちにできるのはせいぜい「あまりやりすぎないように」とたしなめるくらいのことでだけある。
「神を顕彰するための建築を建てよう」というのは宗教の過剰適用ではあるが、まずは常識的な企てである。「神を顕彰するために、異教徒を皆殺しにしよう」というのは常識の範囲を逸脱している。どちらも過剰適用であることに変わりはないのだが、一方は常識の範囲で、他方は常識の範囲外である。
どこに常識と非常識を隔てる線があるのか、いかなる原理に基づいて適否を判断しているのか。そういうことを強面で詰め寄られても、私に確たる答えの用意があるわけではない。
常識と非常識の間にデジタルな境界線は存在しない。にもかかわらず、私は神殿の建築には反対しないが、異教徒の殲滅には反対する。
これを「五十歩百歩」と切り捨てることは私にはできない。この五十歩と百歩の間に、人間が超えてはならない、超えることのできない隔絶があるからである。私はそう感じる。そして、その隔絶を感知するセンサーが「常識」と呼ばれているのだと思う。私たちはこの隔絶を感じ取る皮膚感覚を備えている。
その話を聞いて「鳥肌が立つ」ようなら、それは非常識な話なのだ。

今日本社会で起きている「過経済化」趨勢はすでに常識の範囲を大きく逸脱している。それは見ている私の鳥肌が立つからわかる。そういう場合には「もういい加減にしたらどうか」と声を上げることにしている。
すでに経済はそれが踏み込むべきではない領域に土足で踏み込んでいる。大阪の市長は「地方自治体も民間企業のように経営されなければならない」と主張してメディアと市民から喝采を浴びた。
だが、よく考えて欲しい。行政の仕事は金儲けではない。集めた税金を使うことである。もし採算不芳部門を「民間ではありえない」という理由で廃絶するなら、学校もゴミ処理も消防も警察も民営化するしかない。防災や治安を必要とする市民は金を払ってそれらのサービスを商品として購入すればいい(アメリカにはそういう自治体がもう存在している)。そういう仕組みにすれば行政はみごとにスリム化するだろう。でも、それは金のない市民は行政サービスにもう与ることができないという意味である。
学校教育も経済が踏み込んではならない分野である。だが、「教育コンテンツは商品であり、教員はサービスの売り手であり、子供や保護者は消費者である、だから、消費者に選好される商品展開ができない学校は市場から淘汰されて当然だ」と考える人たちが教育についての言説を独占して久しい。彼らにとって学校は教育商品が売り買いされる市場以外の何ものでもない。学校教育の目的は「集団の次世代を担うことのできる若い同胞の成熟を支援すること」であるという常識を日本人はもうだいぶ前に捨ててしまった。
医療もそうである。金になるから医者になる、金になるから病院を経営する、金になるから薬品を開発する。そういうことを平然と言い放つ人たちがいる。傷ついた人、病んだ人を癒やすことは共同体の義務であり、そのための癒しの専門職を集団成員のうちの誰かが分担しなければならないという常識はここでももう忘れ去られつつある。

農業も「過経済化」に吹き荒らされている。
最初に確認しておきたいが、食糧自給と食文化の維持は「生き延びるための人類の知恵」であって経済とは原理的に無関係である。
農業が経済と無関係だというと驚く人がいるだろう。これは驚く方がおかしい。農業は「金儲け」のためにあるのではない、「生き延びる」ためにある。今の農政をめぐる議論を見ていると、誰もがもう農業の本質について考えるのを止めてしまったようなので、その話をしたい。

人類史を遡ればわかるが、人類が農業生産を始めたのは、「限りある資源を競合的に奪い合う事態を回避するためにはどうすればいいのか」という問いへの一つの解としてであった。
農業はなによりもまず食資源の確保のために開発されたのである
食糧を集団的に確保し、生き延びること。それが農業生産のアルファでありオメガであり、自余のことはすべて副次的なものに過ぎない。
食糧を、他者と競合的な奪い合いをせずに、安定的に供給できるために最も有効な方法は何か?
人類の始祖たちはそこから発想した。
最初に思いついた答えはまず食資源をできるだけ「散らす」ということだった。小麦を主食とする集団、イモを主食とする集団、トウモロコシを主食とする集団、バナナを主食とする集団・・・食資源が重複しなければ、それだけ飢餓のリスクは減る。
他人から見ると「食糧」のカテゴリーに入らないものを食べることは食資源の確保にとって死活的に重要なことである。自分たちが食べるものが他集団の人々からは「ジャンク」にしか見えないようであれば、食物の確保はそれだけ容易になる。お互いに相手の食べ物を見て「よくあんなものが食える」と吐き気を催すようであれば、食糧の奪い合いは起こらない。他者の欲望を喚起しないこと、これが食資源確保のための第一原則である。
食資源確保のための次の工夫は「食えないものを食えるようにすること」であった。不可食物を可食的なものに変換すること。水にさらす、火で焼く、お湯で煮る、煙で燻す・・・さまざまな方法を人間は開発した。
それでも同じような生態系のうちに居住していれば食資源はいやでも重複する。その場合には競合を回避するために、人々は「固有の調理法」というものを作り出した。調理はもともとは「不可食物の可食化」のための化学的操作として発達した。だから、「できるだけ手間を掛けずに可食化する」ことがめざされたわけであるが、人々はすぐにできるだけ手間を掛ける方が調理法としてはすぐれているということに気づいた。「ジャンク化」と同じアイディアである。特殊な道具を用いて、特殊な製法で行わない限り、可食化できない植物(例えば、とちの実)は、その技術を持たない集団からみれば「ただのゴミ」である。「ただのゴミ」には誰も手を出さない。
主食の調味料に特殊な発酵物を用いる食習慣も同じ理由で説明できる。発酵物とはまさに「それを食用にしない集団から見れば腐敗物にしか見えない」もののことだからである。
食文化が多様であるのは、グルメ雑誌のライターたちが信じているように「世界中の美食」に対する欲望を駆動するためではない。まったく逆である。他集団の人からは「よくあんなものが食える(気持ち悪くてゲロ吐きそう)」と思われるようなものを食べることで他者の欲望を鎮め、食糧を安定的に確保するために食文化は多様化したのである。

農業について考えるとき、私たちはつねに「何のために先人たちはこのような農作物を選択し、このような耕作形態を採用したのか」という原点の問いに戻る必要がある。
原点において、農業生産の目的はただひとつしかない。それは食資源の確保である。それだけである。そして、人類の経験が教えてくれたのは、食資源の確保のためにもっとも有効な手立ては「手元に潤沢にある(そのままでは食べられない)自然物」を可食化する調理技術を発達させることと、「他集団の人間が食べないもの」を食べること、この二つであった。

現在の日本の農政はこの原点から隔たること遠い。
TPPが目指すのは「手元にない食資源」を商品として購入すること、食文化を均質化することだからである。
世界中の70億人が同じものを、同じ調理法で食べる。そういう食のかたちを実現することが自由貿易論者の理想である。そうすれば市場需要の多い商品作物だけを、生産コストが安い地域で大量生産して、莫大な収益を上げることができる。
原理的には、世界中の人がそれぞれ違う主食を食べ、調理法を異にし、他文化圏から輸出されてくる食物を「こんなもの食えるか」と吐き出すというありようが食の安全保障(つまり70億人の延命)という点からは最適解なのだが、グローバル経済はそれを許さない。「全員が同じ食物を競合的に欲望する」というありようがコストを最小化し、利益を最大化するための最適解だからである。
例えば、世界中の人間が米を食うようになれば、最低の生産コストで米を生産できるアグリビジネスは、競合相手を蹴散らして、世界市場を独占できるし、独占したあとは価格をいくらでも自由にコントロールできる。自前の食文化を失い、「市場で商品として売られているものしか食えない」という規格的な食生活にまず人類全体を追い込んでおいて、それからその商品の供給をコントロールする。人々が希少な単一食資源を奪い合い、「食物を手に入れるためには金に糸目をつけない」という世界こそ、アグリビジネスにとっては理想的な市場のかたちなのである
だから、グローバル経済はその必然として、世界中の食生活の標準化と、固有の食文化の廃絶という方向に向かう。これを「非人間的だ」とか「反文明的だ」批判しても始まらない。ビジネスというのはそういうものなのだからしかたがない。アグリビジネスは目先の金に用事があるだけで、人類の存続には特別な関心がないのである。
私が農業について言っていることはたいへんシンプルである。それは、人間たちは「金儲け」よりもまず「生き延びること」を優先的に配慮しなければならないということである。生き物として当たり前のことである。その「生き物として当たり前のこと」を声を大にして言わないといけないほど、私たちの社会の過経済化は進行しているのである。
これまで人類史のほぼ全時期において、食糧生産は金儲けのためではなく、食資源を確保するために行われてきた。でも、今は違う。人々はこんなふうに考えている。食糧の確保のことは考えなくてもいい(金を出せばいつでも市場で買えるのだから)。それよりも、どういうふうに食糧を作れば金になるのかをまず考えよう。だから、「食糧を作っても金にならないのなら、もう作らない」というのが正しい経営判断になる。
だが、これは国内市場には未来永劫、安定的に食糧が備給され続けるという予測に基づいた議論である。こんな気楽な議論ができる国が世界にいくつあるか、自由貿易論者たちは数えたことがあるのだろうか。21世紀の今なお世界では8億人が飢餓状態にある。「費用対効果が悪いから」という理由で食糧自給を放棄し、製造業や金融業に特化して、それで稼いだ金で安い農作物を中国や南米から買えばいいというようなことを考えられる人は「自分の食べるもの」の供給が停止するという事態をたぶん一度も想像したことがない。日本の国債が紙くずになったときも、円が暴落したときも、戦争が起きてシーレーンが航行不能になったときも、原発がまた事故を起こして海外の艦船が日本に寄港することを拒否したときも、食糧はもう海外からは供給されない。数週間から数ヶ月で日本人は飢え始める。それがどのような凄惨な光景をもたらすか、自由貿易論者たちは想像したことがあるのだろうか。たぶんないだろう。
彼らにとって食糧は自動車やコンピュータと同じような商品の一種に過ぎない。そういうものならたとえ輸入が止っても、それはむしろ在庫を高値で売り抜けるチャンスである。でも、食糧はそうではない。供給量があるラインを割った瞬間に、それは商品であることを止めて、人々がそれなしでは生きてゆけない「糧」というものに変容する。たいせつなことなので、もう一度書く。食糧は供給量があるラインより上にあるときは商品としてふるまうが、ある供給量を切ったときから商品ではなくなる。そういう特殊なありようをする。だから、食糧は何があっても安定的に供給できる手立てを講じておかなければならないのである。食糧を、他の商品と同じように、収益や効率や費用対効果といった用語で語ることは不適切であり、それに気づかずビジネスの用語で農業を語る風儀を私は「過経済化」と呼んでいるのである。
同胞が飢えても、それで金儲けができるなら大歓迎だと思うことをグローバルビジネスマンに向かって「止めろ」とは言わない(言っても無駄だ)。でも、お願いだから「日本の農業はかくあらねばならぬ」というようなことを言うのだけは止めて欲しい。他は何をしてもいいから、農業と医療と教育についてだけは何も言わないで欲しい。

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