新聞の電話取材で、またまた米軍基地のことを訊かれる。
グアムへの米軍基地の移転コストを日本政府が肩代わりしたり、「共同開発」名目で米軍の支出を予算的に「思いやったり」することについてどう思うかというお訊ねである。
しかたないんじゃないの、とお答えする。
「厭です」といって払わずに済むものなら、とっくにそうしているはずである。
「厭です」と言えない事情があるから、泣く泣く「みかじめ料」を出しているのである。
もちろん近代国家同士のあいだの話であるから、別に米軍が日本にドスをつきつけて「払わんと痛い目にあわせるど、こら」と凄んでいるわけではない。
「払わないと、そちらさまがとっても『たいへんな目』に遭われるのではないでしょうか。いや、われわれはまあよそさまのことですから、どうだっていいと言えばどうだっていいんですけど、まあそちらさまとも先代からの長いお付き合いですから、老婆心ながら・・・」と言われているのである。
米軍に日本から出て行って欲しい。
これは沖縄県民と日本のそれ以外の地域の「ふつうの人」の正直な気持ちである。
それなのにアメリカは「出て行かない」。
別に無理強いに居座っているわけではない。
最後の最後で、日本政府が「やっぱりいてください」と懇願しているというかたちになってこうなっている。
なぜ、最後の最後で日本政府が「やっぱりいてください」と懇願するのか。その理由を記者のかたに懇々とご説明する。
理由は「アメリカ軍がいなくなったあと」についてのシミュレーションをすればわかる。
アメリカは沖縄に核兵器を置いている。
もちろん、公式には誰も認めないが、これは「沖縄に核はない」と考えるよりも蓋然性が高い推理であるので、私はこれを採用する。
別に政治的立場とは関係ない。純然たる「蓋然性」の問題である。
「沖縄には核がある」と想定した方が「ない」と想定するより、「説明できること」の数が多いので、採択するのである。
「ない」と想定した方があれこれの日米両政府の「よくわからないふるまい」をよりうまく説明できるのであれば、私は喜んで「沖縄には核はない」という言明を支持するであろう。
沖縄には核兵器がある。
65年前から、ずっと、ある。
それが東アジアにおけるアメリカの「抑止力」の正体である。
だいたい「抑止力」というのはもっぱら「核抑止力」という言い方でしか使われない言葉である。
もしかすると「あるように見せかけて、実はない」のかも知れない。
けれども、「あるように見える」せいで、「沖縄の核」はソ連、中国、北朝鮮などに対しては十分抑止的に機能してきた。
たぶん「あるように見えるけれど、ない」というのが核抑止力の使い方としてはいちばんクレバーなのだろう(あると、盗まれたり、爆発したりする可能性があるし、膨大な管理コストがかかるけれど、「あるように見えて、実はない」のなら、リスクもコストもゼロだからである)。
だから、日米としては理想的には「疑心暗鬼の眼にはあるように見えるが、実はない」状態にもってゆきたい。
けれども「いつ」そのシフトがあったかがわかっては身も蓋もない。
「あるようなないような状態」をできるだけ長く引き延ばしたい。
だから、沖縄からの米軍基地の撤去は「抑止力」戦略を取る限りは不可能な選択になる。
日本には憲法九条があり、(空洞化したとはいえ)非核三原則がある。
米軍基地のない日本列島には100%の確率で「核兵器はない」と推理できる。
現在の沖縄に核兵器はないかもしれない。でも、「あるかもしれない」と思わせることには成功している。
日米の従属関係を勘案すると、日本政府が自国領内に他国軍が核兵器を配備しているかどうか「知らない」ということは大いにありうる。
ふつうの主権国家ではありえないことが、日米関係なら「ありうる」。
中国も北朝鮮もそれはよくわかっている。
たぶん米軍関係者は鳩山首相に沖縄でこう囁いたのではないかと私は想像している。
「首相、ここだけの話ですけどね、実は沖縄には核兵器なんか、ないんです。でも『あるように』見せかけている。そちらだって、憲法九条を維持し、非核三原則を掲げているお国だ。その上で『核抑止力』を機能させようとしたら、どう考えても、『ないけど、あるように見えている』という状態がベストでしょ。でも、これがあなた、国外に米軍基地が全部移転してごらんなさい。『ない』ということが世界中にわかってしまうじゃないですか。そのあとも引き続き列島に『核抑止力』を機能させようとしたら、日本政府のオプションは事実上一つしかありませんよ・・・」
そう、オプションは一つしかない。
それは(考えたくないが)自主核武装である。
憲法九条二項を廃棄し、非核三原則の看板をおろして、核武装する。
それ以外の選択肢は論理的にはない。
通常兵器で「核なみ」の抑止力を担保しようとしたら、「先軍主義」を採用して、医療も教育も福祉もすべて後回しにして軍備を充実させ、徴兵制の導入も考慮せねばならないが、そのような強引な政策を貫徹できるだけの体力は今の日本にはない。だいいち、そのような政策を掲げた政党が選挙で勝てる見込みはない。
核兵器はコストの最も安い兵器である(だから世界中の貧乏国が争って核武装しようとする)。
だから、日本の社会システムを「このまま」のレベルに保ち、かつ十分な抑止力をもつためには核武装しか選択肢がない。
理論的にはそうだが、そのような国民的合意が平和裡に形成される確率もまたない。
ないないづくしである。
護憲派は死に物狂いで反対運動を組織するだろうし、左翼勢力も一斉に息を吹き返すだろう。まさしく国論を二分するような騒ぎになり、政治不信は募り、経済も停滞し、国民のあいだの相互信頼は崩れ、日本社会は回復不能の傷を負い、にもかかわらず核武装への合意形成には至らない。だいいち「核なき世界」をめざすオバマ大統領が許すはずがない。
つまり、「核武装のための合意形成」は「試みるだけ無駄」なのである。
通常兵器による抑止力形成はコスト的に不可能。コスト的に引き合う核武装は国論の統一ができないので不可能。
つまり、抑止力戦略の有用性を信じる限り、私たちには「現状維持」しか打つ手がないのである。
そのうちもしかしたら、アメリカの覇権が瓦解して、アメリカが東アジアから撤退し、軍事的緊張そのものが消滅するかも知れない。中国の民主化が進んで人民解放軍の影響力が抑制されるかもしれない。北朝鮮の独裁体制が崩壊して、南北統一民主国家が半島にできるかもしれない。オバマ大統領の「核なき世界」構想に世界中の国が賛同して、核兵器の存在しない世界になるかもしれない。
何が起こるかわからない。
鳩山首相はたぶん沖縄で米軍関係者にこう言われたのである。
「いや、どうしても出て行けとおっしゃるなら、われわれも沖縄から出て行きますよ。でもね、フェイクではあれ核抑止力がなくなった日本列島の国防について、あなた何かプランお持ちなんですか?核武装はおたくの国内事情からしてありえないでしょう。われわれだってそんなもの日本に許すわけにはゆかないし。『東アジア共同体』?おお、結構ですな。でもね、日米安保条約を維持したままの東アジア共同体構想なんか中国が呑みませんよ。ということは、あなたね、われわれが沖縄から出て行くというのは、日米関係は『これでおしまい』ということなんですよ。そのへんのことわかった上で、『国外』とかおしゃってたのかなあ・・・いや、そんな青い顔しないで。われわれだってヤクザじゃないんだ。いつまでも居座る気じゃないですよ。東アジアの軍事的緊張が緩和したらですね、いつでもおいとまする用意はある。その日をわれわれもあなたがたも待望していることに変わりはない、と。ですからね、日米手を取り合ってアジア全域が民主化される日をともに待ち望もうではありませんか。」
そう聞かされて、「ふはあ」と深いため息をついたのではないか、と私は想像するのである。
それくらいの想像は新聞を斜め読みしているだけでもできると思うけど、と記者にはお答えする。
われわれは外交的なフリーハンドをもった主権国家ではない。
繰り返し書いているとおり、日本はアメリカの軍事的属国である。
そのことを直視するところから始めるしかない。
「何ができないのか」を吟味することなしに「何ができるのか」についての考察は始まらない。
さよならアメリカ、さよなら日本
思考停止と疾病利得
政治向きのことをブログに書くと、しばらく接続が困難になるということが続いている。
べつにサイバー攻撃とかそういうカラフルな事態ではなく、一時的にアクセスが増えて、「渋滞」しちゃうのである。
それだけ多くの人が政治についてのマスメディアの報道に対してつよい不信感をもっており、ミドルメディアに流布している現状分析や提言に注目していることの徴候だろうと私は思う。
今回の普天間基地問題をめぐる一連の報道によって、私は日本のマスメディアとそこを職場とする知識人たちはその信頼性を深く損なったと思っている。
新聞もテレビも、論説委員も評論家も、「複雑な問題を単純化する」「日本の制度的危機を個人の無能という属人的原因で説明する」という常同的な作業にほぼ例外なしに励んでいた。
ほとんどのメディア知識人が「同じこと」を言っているのだから、「他の人と同じことを言っていても悪目立ちはしないだろう」という思考停止がこの数ヶ月のメディアの論調を支配している。
私はその時代を知らないけれど、「大政翼賛会的なものいい」というのはたぶん同時代の人々にこのような種類の徒労感を及ぼしたのだろうと思う。
だが、私はそれを彼らの「知的怠慢」というふうに責める気にはならない。
「複雑な問題を属人的無能という単純な原因に帰して説明した気になる」というのが思考停止の病態であると言っている当の私が「これはメディア知識人たちの知的怠慢という属人的無能のせいである」とその病のよってきたるところを説明したのでは、「ミイラ取りがミイラ」になってしまう。
これだけの数の人々が一斉に同一の病態を示すときには、属人的無能には帰しがたい「構造的理由」があると推理した方がいい。個人の決断を超えた「集合的無意識レベル」でのバイアスがかかっていると考えた方がいい。
「それは何か」を考える方が、知性が不調になっている個人をひとりひとり難詰して回るよりリソースの配分としては経済的である。
メディア知識人たちは何について思考停止に陥っているのか。
「知識人」というのは「一般人より多くの知識・情報をもち、一般人より巧みに推論する」という条件をみたすことで生計を立てている。
だから、「知識人」のピットフォールは「自分が構造的にそこから眼を背けていること、それが論件になることを無意識的に忌避していること」は何かという問いを自分に向けることができないということである。「自分は何を知っているか」を誇示することに急であるため、「自分は何を知りたくないのか」という問いのためには知的リソースを割くことができない。そのような問いにうっかり適切に答えてしまったら、自分の知的威信が下がり、世人に軽んじられ、仕事を失うのではないかと彼らは怖れている。
だが、たいていの場合、「それを主題化することにつよい心理的抑制がかかる論件」の方が「それについてすらすら語れる論件」よりも自分がなにものであるかを知る上では重要な情報を含んでいる。
マスメディアを覆っているこの「構造的無知」は、日本人たちの「自分たちがほんとうはなにものであるかを知りたくない」という欲望の効果であると私は思っている。
前に未知のアメリカ人からメールで普天間問題についての見解を訊かれたことがあり、そのとき私はこんな返事を書いた。
「喫緊の仕事は東アジアにおける米軍のプレザンスが何を意味するかを問うことだと私は考えています。
しかし、日本の『専門家』たちはアメリカのこの地域における外交戦略についての首尾一貫した理解可能な説明をすることと決して試みません。彼らが問うのはどうすればアメリカの要求に応じることができるか、アメリカの軍事行動のために日本領土を最適化するためにはどうすればいいのか、それだけです。彼らにとってアメリカの要求は彼らがそこから出発して推論を始めるべき『所与』なのです。彼らは決して『なぜ?』と問いません。
私はこの症候を『思考停止』と呼んでいます。
日本人の過半数は、『アメリカ人はどうしてこんなふうにふるまうのか?』という問いを立てるたびにこの病的状態に陥ります。
この弱さは歴史的に形成されたもので、私たちのマインドの中に深く根を下ろしています。あの圧倒的な敗戦が、ことアメリカに関する限り、条理を立てて推論する能力を私たちから奪ってしまったのです。
おそらくあなたはそのような弱さを持ち続けることは不自然だとお考えになるでしょう。それは私たちに何の利益ももたらさないから。
けれども、私がこれまで繰り返しさまざまなテクストに書いてきたように、私たちはこの弱さから実は大きな利益を引き出しているのです。
私たちは自分に向かってこう言い聞かせています。私たちとアメリカのあいだには何のフリクションもない、すべてのトラブルは国内的な矛盾に由来するのだ、と。護憲派と改憲派のあいだの対立、平和主義者と軍国主義者の対立、豊かなものと貧しいものの対立、老人と若者の対立・・・などなどこのリストはお望みならいくらでも長くすることができます。
真の問題は日本国内における対立に由来する。そして、国内的対立が問題である限り、私たちはそれをハンドルすることができる。
『私たちはそれをハンドルすることができる。』
これが私たちがそれを国際社会に向かって、とりわけアメリカ人に向かって焦がれるほどに告げたい言葉なのです。
ご存知のように、普天間基地問題について、日本のメディアはアメリカの東アジア軍略についても、日本領土に基地があることの必然性についても、ほとんど言及していません。彼らは鳩山首相の『弱さ』だけにフォーカスしています。彼らは首相を別の人間に置き換えさえすれば、私たちはまたこの問題をハンドルできるようになる、そう言いたいのです。普天間問題はなによりも国内問題である、と。
日本人がアメリカ人と向きあうときに感じる『弱さ』はこの『想像的な』主権によって代償されています。私たちはアメリカとのあいだにどのような外交的不一致も持たない。すべての混乱は日本国内的な対立関係が引き起こしているのだ。そのようにして、私たちは私たちに敗戦の苦い味を私たちに思い出させるアメリカ人をそのつど私たちの脳から厄介払いしているのです。
私はこのような急ぎ足の説明では日本人がアメリカ人と向きあうときの奇妙なマインドセットを説明するのに十分であるとは思いません。しかし、私はあなたがこの説明で日本人を理解するとりあえずの手がかりをつかんでくれることを希望します。」
アメリカ人の友人がこの説明でどこまで事情を理解してくれたのか、私にはわからない。
「そのような説明をこれまで聞いたことがなかった」という感想が届いたが、「それで納得した」とは書いていなかった。
ややこしい話だから、メール一通で説明できるとは私も思っていない。
とりあえず言えるのはメディアの「集団的思考停止」は日本人の欲望の効果だということである。
この思考停止は「私たちは主権国家であり、私たちは外交的なフリーハンドを握っている」という言葉を国際社会に向けて、アメリカに向けて、なにより自分自身に向けて告げたいという切なる国民的願いが要請しているのである。
事実を知れば自己嫌悪に陥るとき、私たちは自分自身についてさえ偽りの言明を行うことがある。
それは人性の自然であるので、それを咎めることは誰にもできない。
けれども、散文的な言い方を許してもらえば、自己欺瞞が有用なのは自分を偽ることによって得られる「疾病利得」が、適切な自己認識のもたらす自己嫌悪の「損失」を上回る限りにおいてである。
疾病利得は「自分が詐病者であることを知っている」という「病識」の裏づけがある限りかなり長期に維持できる。けれども、自分を偽りながら、かつそのことを忘れた場合、それがもたらす被害は疾病利得をいずれは上回ることになる。
私たちはもうその損益分岐点にさしかかっているのだと思う。
今回のマスメディアの「集団的思考停止」は私たちがすでに損益分岐点を一歩超えてしまったことのおそらくは徴候である。
首相辞任について
鳩山首相が辞任した。
テレビニュースで辞意表明会見があったらしいが、他出していて見逃したので、正午少し前に朝日新聞からの電話取材でニュースを知らされた。
コメントを求められたので、次のようなことを答えた。
民主党政権は8ヶ月のあいだに、自民党政権下では前景化しなかった日本の「エスタブリッシュメント」を露呈させた。
結果的にはそれに潰されたわけだが、そのような強固な「変化を嫌う抵抗勢力」が存在していることを明らかにしたことが鳩山政権の最大の功績だろう。
エスタブリッシュメントとは「米軍・霞ヶ関・マスメディア」である。
米軍は東アジアの現状維持を望み、霞ヶ関は国内諸制度の現状維持を望み、マスメディアは世論の形成プロセスの現状維持を望んでいる。
誰も変化を求めていない。
鳩山=小沢ラインというのは、政治スタイルはまったく違うが、短期的な政治目標として「東アジアにおけるアメリカのプレザンスの減殺と国防における日本のフリーハンドの確保:霞ヶ関支配の抑制:政治プロセスを語るときに『これまでマスメディアの人々が操ってきたのとは違う言語』の必要性」を認識しているという点で、共通するものがあった。
言葉を換えて言えば、米軍の統制下から逃れ出て、自主的に防衛構想を起案する「自由」、官僚の既得権に配慮せずに政策を実施する「自由」、マスメディアの定型句とは違う語法で政治を語る「自由」を求めていた。
その要求は21世紀の日本国民が抱いて当然のものだと私は思うが、残念ながら、アメリカも霞ヶ関もマスメディアも、国民がそのような「自由」を享受することを好まなかった。
彼ら「抵抗勢力」の共通点は、日本がほんとうの意味での主権国家ではないことを日本人に「知らせない」ことから受益していることである。
鳩山首相はそのような「自由」を日本人に贈ることができると思っていた。しかし、「抵抗勢力」のあまりの強大さに、とりわけアメリカの世界戦略の中に日本が逃げ道のないかたちでビルトインされていることに深い無力感を覚えたのではないかと思う。
政治史が教えるように、アメリカの政略に抵抗する政治家は日本では長期政権を保つことができない。
日中共同声明によってアメリカの「頭越し」に東アジア外交構想を展開した田中角栄に対するアメリカの徹底的な攻撃はまだ私たちの記憶に新しい。
中曽根康弘・小泉純一郎という際立って「親米的」な政治家が例外的な長期政権を保ったことと対比的である。
実際には、中曽根・小泉はいずれも気質的には「反米愛国」的な人物であるが、それだけに「アメリカは侮れない」ということについてはリアリストだった。彼らの「アメリカを出し抜く」ためには「アメリカに取り入る」必要があるというシニスムは(残念ながら)鳩山首相には無縁のものだった。
アメリカに対するイノセントな信頼が逆に鳩山首相に対するアメリカ側の評価を下げたというのは皮肉である。
朝日新聞のコメント依頼に対しては「マスメディアの責任」を強く指摘したが、(当然ながら)紙面ではずいぶんトーンダウンしているはずであるので、ここに書きとめておくのである。
疾走する文体について
英文学者の難波江和英さんと同僚として過ごすのもあと一年。
最近はふたりとも学務が忙しいし、難波江さんは長くご両親の介護をされているので、むかしのようにゆっくり遊んでいる暇がない。
そこで、「先生ふたりゼミ」をやることにした。
メディア・コミュニケーション副専攻の第四学期の演習科目がそれである。
これだと週に一度必ず90分間おしゃべりできる。
それも主題限定。言語の問題、それだけである。
きわだった言語感覚をもつこの文学研究者から同僚として影響を受けるこれが最後の機会である。
毎週いろいろなテーマで学生を巻き込んで熱く語り合っている。
何かを学生に教えるというより、私たちが対話をつうじて「発見」していることを学生たちにもリアルタイムで共同経験してもらうというような授業である。
昨日のテーマは「文体は疾走する」。
ドライブする文体と、そうでない文体がある。
すぐれた作家は一行目から「ぐい」と読者の襟首をつかんで、一気に物語内的世界に拉致し去る「力業」を使う。
マトグロッソでNSPJをやっているので、一般のひとたちの書いたショートストーリーを150編ほど読んだ。
素材的には面白いものがたくさんあった。
文章も上手である。
けれども、「一気に読ませる」ものはまれである。
数行読めば、わかる。
書き手の立ち位置が「遠い」のである。
眼に見えるし、声も聞こえるのだが、体温がしない。
息づかいが伝わってこない。
「一気に読ませるもの」では、一行目でいきなり書き手がもう耳元にいる。
え、いつのまに・・・というくらいみごとに「間合いを切って」いる。
つまり、「一行目から話が始まる」のではなく、「もう話は始まっているのだが、それはたまたま私にとっては『一行目』だった」ということである。
「ぐい」と物語世界の中に拉致し去るような力というのは、要するに書き手の構築しているストーリーの世界の「堅牢さ」なのだと思う。
堅牢で、精緻に作り上げられ、そこにずいぶん長く人が住んでいる構築物に固有の堅牢さである。
そういう建物にはいくらでも入り口がある。
正門から入ってもいいし、裏口から入ってもいいし、窓から入ってもいい。
現にそこで暮らしているんだから。
読み手がどこにいようと、世界が堅牢であれば、私たちはたちまち物語の中に入り込むことができる。
「ここから以外には入れません。順路通りに進んでください」というような指示がされると、微妙に「つくりもの」くさく感じる。ベニヤ板にペンキを塗ったものを並べたものを見せられているのではないかというような気がしてくる。
疾走感のある文体とはどういうものか。
それについて六冊の本の冒頭部分を読んだ。
最初は高橋源一郎『「悪」と戦う』(2010)。
これは週刊現代に書評を書いたばかりである。既発のものだからブログで再録してもいいだろう。
290頁の本ですけど、読み出して十数秒後には物語の中に引きずり込まれて、「あれよあれよ」という間に100頁まで一気読みしてしまいました。さすがにそこまで読んだところで本から顔を上げて、ようやく「ふう」と息をつきました。なんというドライブ感。高橋源一郎にしか書けないタイプの疾走感のある文章です。知り合いの編集者が「太宰治みたい」と読後の印象を語っていたけれど、たしかにその通り。どういう条件が整うと、作家はこれほどまでに「疾走感のある文章」を書けるのか。息継ぎのついでに、先を読むのを止めてそれについて考えました。小説はこんなふうに始まります。
「キイちゃんは一歳半になりました。でも、ことばが遅い。ことばの発達が遅れている。ああ、この言い方でいいんでしょうか。『ことばが遅い』とか『ことばの発達が遅れている』とか。でも、いいや。間違っていても。それより、キイちゃんのことばの発達のことが心配です。」
高橋さんの文体のギヤは「ああ」で二速に入り、「でも」で三速に入り、「それより」で「トップギヤ」に入ります。三行でトップスピード。すごい。太宰の「死なうと思ってゐた」とか「子供より親が大事と思いたい」の「一行目からトップギヤ」というワールドレコードにはちょっと届きませんけど、現代作家たちの「ゼロヨン競争」があったら、間違いなく高橋源一郎がぶっちぎりのチャンピオンでしょう。
ゼロヨン超高速で言葉が紡がれるためには先行的な「プラン」は不要です。「プラン」があれば、まっすぐ目的地に向かえるから、文体は速度を獲得するだろうと考えるのは間違い。この文体の速度は、崖から滑り落ちてゆく人間が手に触れる限りのでっぱりやくぼみや木の根や蔦に指を絡めようとする運動の速さに近いです。どこに落ちてゆくのかわからないまま、必死で崖面を探っている「落下者」の指先は「つかめるもの」と「つかめないもの」を触れた瞬間に判断します。その敏感な指先が選び出した「ホールド」となりうる言葉だけが小説を構成したとしたら、そこには無駄な言葉が一つもない小説が出現することになる。理論的にはそうですね。たぶん高橋さんは「そういう小説」を書こうとしたのだと思います。
そのためには、作家その人を今まさに呑み込もうとしている「メエルシュトレエム」に飛び込んでみせなければならない。高橋さんが選んだ大渦は「悪」でした。そして、そこに巻き込まれるのは高橋さんの物語的分身ではなく、「子ども」です。経験知の不足している「子ども」の見る「地獄」の風景はたぶん大人が経巡るときよりもずっと生々しいものになります。その物語の結構から言うと、本作は『ハックルベリー・フィンの冒険』とや『ライ麦畑のキャッチャー』の直系につらなるものかも知れません。
「愛」は「悪」を制御することができるか(「勝てるか」とは言いません)。それは高橋源一郎の全作品に伏流する神話的な主題ですが、それがここまで真率に提示されたものを読むのはひさしぶりのことです。
ほかに例としてあげたのは、村上龍『69 sixty nine』、織田作之助『夫婦善哉』、中島敦『名人伝』、夏目漱石『草枕』。そして決定版がこれ。
「撰ばれてあることの
恍惚と不安
二つわれにあり
ヴェルレエヌ
死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉である。着物の布地は麻であつた。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
ノラもまた考えた。廊下へ出てうしろの扉をばたんとしめたときに考えた。帰ろうかしら。」
これは小説の「イントロ」としては近代文学史の達成のひとつであろう。(個人的趣味を言わせてもらえば、やはりこれは旧仮名遣いで「死なうと思つてゐた」としたいところだけれど)
授業は『「悪」と戦う』のイントロと『晩年』のイントロが構造的にきわめて近いという論件から始まった。
どこが似ているのか。
それについては各自、もう一度二作を読み比べて(ただし高橋さんの本の方はもう二頁ほど先まで)、お考えいただきたいと思う。
私の考えでは共通点は二つ。
一つは「他人の言葉」がいきなり闖入してくること。
一つは「墜落する」、である。
論争について
ある月刊誌から上野千鶴子と対談して、「おひとりさま」問題について議論してくださいというご依頼があった。
上野さんと対談してくれという依頼はこれまでも何度もあった。
どれもお断りした。
繰り返し書いているように、私は論争というものを好まないからである。
論争というのはそこに加わる人に論敵を「最低の鞍部」で超えることを戦術上要求する。
それは「脊髄反射的」な攻撃性を備えた人間にとってはそれほどむずかしいことではない。
あらゆる論件についてほれぼれするほどスマートに論敵を「超えて」しまう種類の知的能力というものを備えている人は現にいる(村上春樹は『ねじまき鳥クロニクル』でそのような人物の容貌を活写したことがある)。
それは速く走れるとか高く飛び上がれるとかいうのと同じように、例外的な才能である。
でも、そのような才能を評価する習慣を私はずいぶん前に捨てた。
そのような能力はその素質に恵まれた人自身も、周囲の人もそれほど幸福にしないことがわかったからである。
それだけの資質があれば、それをもっと違うことに使う方が「世の中のため」だろうと思う。
論争におけるマナーについて高橋源一郎さんがツイッターに書いていた。私は高橋さんの提言に100%賛成である。ここに採録しておきたいと思う。
いまからツイートするのは、ぼくが「政治的アクション・政治的言論」に関して原則とすべき、と考えていることです。それは政治的事件や政策への批判、なんらかの提案、具体的な行動、等々、政治に関する関わりのすべてを含む政治的アクションを起こすにあたって、 守るべきことと考えているものです。
原則1・「批判」は「対案」を抱いて臨むべし……政治的問題を批判する時、単なる批判ではなく、なんらかの 「対案」を抱いてからあたるべきです。「××の〇〇という政策は愚か」ではなく「××の〇〇という政策で、△△は評価に値するが、□□は▲▲へ代替すべき」という語法で語るべきです。
原則2・「対案」は「原理的」「現実的」「応急」「思いつき」のいずれでも良し……政治的問題に「正解」はありません。ただ「最適解」が存在するだけです。必要なのは、「最適解」に至る材料を提出することです。「言わない」ことがいちばんまずいのです。なぜ、 批判だけするのか。
原則2続・ぼくたちが「批判」だけして、「対案」を出さないのは、自分もまた「正解」を知らない、と思って いるからです。「どこかに正解がある」と学校教育は教えます。けれど、政治的イッシューに「正解」などないのです。だからこそ、なんでも「言ってみる」べきなのです。
原則3・「自分の意見」は変わるべし…「対案」として「自分の意見」を提出しても、固執する必要はありません。というか、よりましな意見を目にしたら、「即座に変える」べきだとぼくは考えます。なぜなら、「対案」もまた「叩き台」にすぎないからです。一人より 複数の智恵を参考にすべきです。
原則4・「対立する相手」の意見にこそ耳をかたむけるべし…もっとも本質的な批判は、対立者からのものです。だから、その意見にこそ耳をかたむけなければなりません。同調者や支持者の意見は、耳に優しいものですが、自分の「対案」を、「よりまし」にする力にはならないからです。
原則5・「寛容」をもって臨むべし……「対立」する意見を持つ「対立者」を「敵」と考えてはなりません。 「対立者」もまた、同じこの共同体を構成する、かけがえのない成員なのですから。だから、「非国民」「売国奴」「愚か者」のような言葉を決して使ってはなりません。
ぼくがこのような原則を採用している理由は、60年代から70年にかけて、政治運動に参加していた時、この原則を採用できず、悲惨な結果を招いたことがあったからです。以後、ぼくは、これらを守るべき原則と考えるようになったのです。
私は高橋さんのこの原則を支持する。
その原則を適用するからこそ「論争」を望まないのである。
上野さんと私の対立点は「共同体」構想をめぐってのものである。
どのような共同体が望ましいかについての私たちの考えはずいぶん違う。
私は親族共同体をベースに考え、上野さんは親族を離れた個人をベースに考えている。
分岐する理由は私にはよくわかる。
個人ベースの共同体論は「豊かで安全な社会」に適している。親族ベースの共同体論は「豊かでも安全でもない社会」に適している。
理論そのものに当否があるのではない。
私と上野さんでは、社会状況の変化についての見通しがいささか違うだけである。
私は今の日本は「それほど豊かでも安全でもない社会」に(ゆっくりとではあるが)移行しつつあると考えている。
でも、これは「未来予測」であるから、私が正しい予測を立てているかどうかは今の段階ではわからない。時間が経たないとわからない。でも、時間が経てば誰にでもわかる。
時間が経たないとわからないことについて、今ここでその予測の適否を論じてもしかたがない。
適否を論じる暇があったら、とりあえず「あまり豊かでも安全でもない社会」でも生き延びられるように自分なりの備えをしておく方が時間の使い方としては合理的だろうと私は思う。
私自身はそのための「備え」をだいぶ前から始めている。
血縁地縁ベースの相互扶助共同体の構築である。
私はそれを自分の時間とお金をつかって行っている。
「行政が主導すべきだ」とも思わないし、そのような企てに公的な支援をしろと要求する気もないし、範例的な共同体としてメディアに報道してくれと言う気もない。
やりたいからやっているだけである。
他の人にも「私のようにしなさい」と言う筋のものではない。
私と同じような見通しに立って、相互扶助相互支援のための共同体の構築を始めている人はすでに日本中にたくさんいるだろうと思う。
その人たちといずれどこかで出会えばゆるやかな結びつきをもつことがあるかもしれない。ないかもしれない。
私は「自分の旗」を掲げて、「私の考えに同意してくださる方」へ連帯の挨拶を送るだけである。
そのために毎日大量の文章を書いている。
こういう進め方しか私には思いつかない。
その理由は高橋さんと同じである。
もうひとことだけ
朝刊を読んだら、菅直人新首相について「期待する」という社説が掲げてあった。
その理由として市民運動出身であり、ポリティカル・ファミリーの出身でなく、自民党員だったことがないことが挙げてあった。
そして、新首相に課せられた最優先の政治課題は「小沢一郎の影響力を払拭すること」だと書かれていた。
私はこの説明を読んで、考え込んでしまった。
こういうことを「統治者としてのアドバンテージ」としてよろしいのであろうか。
「市民運動をしたことがなくて、ポリティカル・ファミリーの出身で、自民党員だったことがある」前首相との対比で、そのアドバンテージを強調したかった論説委員の気持ちは理解できるが、私はこの記事を読んで深い徒労感を覚えた。
もう何度も書いていることだが、私たちの国が陥っている窮状は構造的なものであり、つよい惰性をもっている。
日本の不調を統治者個人の属人的な能力で説明することには限界があるし、その人がどのような政治的キャリアであるかということと彼がこれから行う政治的選択の適否のあいだにも十分な相関関係はない。
メディアや政治学者の仕事はなによりもまず、統治者に意志があれば実現可能であるのは「どこまで」で、どこから後は個人的な善意や願望だけでは簡単には実現しない構造的な問題であるか、その境界をあきらかにすることではないのか。
統治者を評価するときには、まず「意志があれば実現可能」である政治課題の成否について吟味し、「善意や願望だけではどうにもならない」構造的な問題についての評価は「別のスケール」で考量すべきだろう。
けれども今のメディア知識人たちにはあきらかにそのようなスケールの使い分けをする能力が欠如している。
彼らの今回のできごとについての総括は失政の責任は「鳩山由紀夫」という個人の無能に帰し、新政権のまずなすべきことを「小沢一郎」という個人の排除だとしている。
だが、前政権が露呈させたのは、「日本は主権国家ではない」という「根源的事実」と、官僚とメディアがその事実を組織的に隠蔽してきたという「派生的事実」である。
このどちらのイシューについてもメディアはまったく論じる気がないようである。
アメリカの一友人に書いたことをもう一度採録する。私はこう書いた。
「ご存知のように、普天間基地問題について、日本のメディアはアメリカの東アジア軍略についても、日本領土に基地があることの必然性についても、ほとんど言及していません。彼らは鳩山首相の『弱さ』だけにフォーカスしています。彼らは首相を別の人間に置き換えさえすれば、私たちはまたこの問題をハンドルできるようになる、そう言いたいのです。
普天間問題はなによりも国内問題である、と。
日本人がアメリカ人と向きあうときに感じる『弱さ』はこの『想像的な』主権によって代償されています。私たちはアメリカとのあいだにはどのような外交的不一致もない。すべての混乱は日本国内的な対立関係が引き起こしているのだ。そのようにして、私たちは私たちに敗戦の苦い味を私たちに思い出させるアメリカ人をそのつど私たちの脳から厄介払いしているのです。」
今朝の紙面の政治記事のほとんどは政局にかかわるものであった。
それはメディアの「日本がかかえるすべての問題は国内問題である」という信憑(というよりは欲望)をはしなくも露呈していたと私は思う。
引っ越しました
北方領土について考える
大学院のゼミでは北方領土問題が論じられた。
ゼミでこの問題を論じるのは、20年間大学にいてはじめてである。
沖縄基地問題についての論及回数とは比較にならない。
南島とくらべてそれだけ扱いにくい論件だということなのかもしれない。
学生たちがこの論件を忌避する理由の一つは、たぶんこの問題をリアルかつクールに分析することに対して、きわめてパセティックな「抑圧」がかかるせいである。
領土問題になると、国民国家の成員たちはどの国でもすぐに熱くなる。
「国境線については絶対譲歩するな」という言説が幅をきかすのはどの国でも同じである。
「国境線を譲歩しても、隣国との友好関係を構築するほうが国益にかなう」というタイプの議論をする人間は袋だたきに遭い、うっかりするとテロリストの標的になる。
国境線を少しでも拡げた政治家は「英雄」ともてはやされ、国境線を少しでも失った政治家は「売国奴」と罵られる。
それは古今東西どこでも変わらない。
日露の領土交渉でも、それぞれの政権担当者たちは、自分たちのドメスティックなポピュラリティを勘案すると、領土問題では「絶対に譲歩できない」という縛りがかかっている。
少し前に谷地正太郎元外務事務次官が「3・5島返還論」について言及して、「主権を放棄する気か」というはげしい批判を浴びたことは記憶に新しい(私事にわたるが、谷地さんご一家は40年前に相模原の私の家のお隣に住んでいらした。なかなか他人とは思えない)。
3・5島返還論というのは、歯舞・色丹・国後の3島に択捉の20-25%程度を加えると、だいたい四島の総面積の50%になるので、それを返してもらって手を打ってはどうかという試案である。
吟味に値する試案だと思うけれど、日本政府は「四島全面返還」以外のいかなるオプションについてもこれを議論のテーブルに載せる気はないようである。
もちろん、ロシアが四島一括変換に応じる可能性はない。
だから北方領土はこのままではたぶん永遠に返還されないであろう。
日本政府は「それでも譲歩するよりはまし」という判断をしている。
日本政府は「領土問題で譲歩しない国である」ということを国際社会にアピールすることを「北方領土が一部でも返還されること」よりも優先させているということである。
これはこれでひとつの政治判断であるから、「そういうのもあり」かもしれないとは思う。
けれども、その場合でも「領土問題で譲歩しない国であるということを国際社会にアピールすることで得られるメリット」と「北方領土がまったく返還されないことのデメリット」を計量的に吟味する作業というのは誰かがやらなければならないと思う。
四島は日本固有の領土である、とういう主張は合理的であると私も思う。
1855年の日露和親条約で両国の国境線が画定されたが、そのときに千島列島については「択捉島と得撫島の間」を領国国境とし、樺太については国境を設けず、両国民混在の地とすると決まった。
その後、日露戦争で、日本は南樺太と千島列島全島を領有することになったが、1951年のサンフランシスコ講和条約でこれを放棄した。
ロシア側は「千島列島全部を放棄」したときに、日本は、日露和親条約のときに確定した四島領有もあわせて放棄したと解釈しており、日本は四島は日本固有の領土であり、放棄した「千島列島」には含まれていないと主張している。
この両国の主張は常識的に見ればロシアの言い分が「いいがかり」である。
1855年の国境線は日露双方が外交的に対等な交渉を行って合意したものである。
1905年のポーツマス条約で得た北方領土は日露戦争の「戦果」である。だから、次の戦争での戦勝国が「戦果」として「とったものを返せ」という主張をなすのは理屈としては通る。
けれども、「和親条約で日本領土として認めたものもこちらによこせ」というのは筋が通らない。
誰が見ても通らない。
これに関して、ロシアの主張に理ありとしている国がいくつあるのか私は知らないが、たぶんほとんどないだろう。
中国もロシアの主張を非としているし、ヨーロッパ議会も2005年にロシアに対して北方領土の日本への返還を要求している。
しかし、これを喫緊の論件とし、どうすれば返還が果たせるのかについて具体的な議論が国民的規模で始まる様子は見えない。
返還交渉はこれまでの経緯から見て、二国間会議ではまず埒があかない。
強力な第三国に仲をとりもつ周旋役に入ってもらうしかない。
選択肢は三つしかない。
EUか中国かアメリカである。
EUと中国は四島返還を求めているから、ロシアが厭がるかもしれないが、このどちらかが入ってくれれば、返還交渉は具体化する可能性が高い。
「3・5島返還プラス択捉島共同管理」とか「知床半島と国後島の世界遺産平和公園構想に基づく千島樺太共同開発」とか、いろいろなアイディアが出てくるはずである。
それがさっぱり始まる気配がないというのは、外務省にはEUや中国に斡旋を頼む気がないということである。
EUや中国に北方領土問題の斡旋を頼んだら、アメリカは激怒することがわかっているからである。
なんでオレに頼まないのか、と。
にもかかわらず、アメリカはこの問題についてはあきらかにぜんぜん「やる気」がないのである。
アメリカのこの徴候的な「やる気のなさ」は検討に値すると私は思う。
アメリカはなぜ北方領土問題にコミットしてこないのか。
それはおそらく北方領土問題が実は「南方領土問題」と同一の問題だと彼らが考えているからである。
北方領土問題は「戦勝国による敗戦国領土の不法占拠」問題である。
もしアメリカがロシアの北方領土の占拠を「不法」としてあげつらうと、その「天に向かって吐いた唾」は、そのまま「南方領土」を「不法占拠」しているアメリカの顔にかかってくる。
アメリカがいちばん困るのはロシアが「じゃあ、オレたちは北方領土返すから、お前は沖縄から出て行け」という「痛み分け」の提案をしてくることである。
これはロシアにとってはおおきな「得点」にカウントできる。
日本に(もともと日本のものである)小さな島を戻してやった代償として、西太平洋におけるアメリカの軍事的プレザンスを一気に減殺させたと国民に誇ることができれば、ロシアの為政者の支持率はとりあえず安泰である。
だから、ロシアはアメリカが周旋に出てきたら、絶対そう要求する。
「沖縄から出て行け」
アメリカはこれを言われるとほんとうに困る。
日本にとっては「北方領土問題と沖縄問題の同時的解決」がそれによって実現するわけだから、圧倒的多数の日本国民はロシアのこの提案を大喝采で迎えるであろう。
だから、絶対にロシアにそのような言葉を言わせてはならない。
わが外務省にもアメリカからは厳重にそれが言い渡されている。
北方領土問題に絶対にオレを巻き込むなよ、と。
だからといってEUや中国やASEANにも周旋を依頼してはならない。
つまり、北方領土問題を永遠に「現状維持」のままにしておくことがアメリカにとってはさしあたり国益維持のための最良のオプションなのである。
だから、「北方領土についてはいかなる譲歩もありえない」という原理主義的なスローガンを日本の「親米派」の政治家たちと官僚たちに言わせているのである。
それによって北方領土と「南方領土」の米露二国による不法占拠状態は永遠に継続されるからである。
だと私は思う。
どうして「起こってもいいはずのことが起こらないのか」を考えるのは、推理力のための重要な訓練であるというのはミシェル・フーコーとシャーロック・ホームズの教えである。
キャラ化する世界
教授会のさいちゅうに携帯が鳴って、廊下で出たら、某新聞から電話取材。
本日、菅新首相の所信表明演説があったけれど、新内閣についての感想は・・・というご下問である。
こちらは授業と会議で、演説聴いてないので、なんとも言いようがないけれど、とにかく直前の内閣支持率20%が3倍にはねあがるというのは「異常」だと申し上げる。
菅首相自身は前内閣の副総理。主要閣僚もほとんど留任であり、政策の整合性を考えるなら、前政権から大きく変化するということはありえないし、あるべきでもない。
もし、首相がかわったせいで政権の性格が一変するというのなら、それは副総理であったときの菅直人の政治的影響力が「かぎりなくゼロに近い」ものだったということを意味する。
副総理のときに政策決定にまったく関与できなかった政治家が、1ランク上がったせいで、圧倒的な指導力を発揮するという説明を私は信じない。
菅新首相は前内閣の枢要の地位にあった。
だから、前政権が繰り返し致命的な「失政」を犯したというメディアの報道が真実なら、「A級戦犯」として指弾されなければならない人物である。
そうではない、すべては鳩山由紀夫という人物の属人的無能ゆえの失政であり、閣僚には何の責任もないというのが、新政権およびメディアのとりあえずの「総括」のように思われるのだが、私はこのような「属人的特質によって、複雑な問題を単純化する傾向」のことを「キャラ化」と呼ぼうと思う。
「キャラが立つ」ということを言い出したのは小池一夫である。
劇画の世界では小池以来ひさしく「キャラ」の立ち上げが最優先事項とされてきた。
キャラが立てば、ストーリーはあとからついてくる。
どういう「カラフル」なキャラを創造するか、そこにマンガ家の力量が現れる。
これはウラジミール・プロップ的物語構造の定型性から脱却するための、画期的なアイディアだったと私は思う。
きわだった「キャラ」は物語の定型的な流れを打ち破り、因習的な登場人物たちであれば、決して「言うはずのないこと」を語り、決して「するはずがないこと」を断行してしまう。
小池一夫が「キャラ」という言葉を言い出したときにめざしていたのは、そのような人物設定上の「法外さ」によって、マンガの世界に自由をもたらしきたすことだった。
と私は思う。
けれども、あらゆる創意は定型化する。
「キャラ」もまたたちまちのうちに定型に回収された。
キャラの派手さによって、ストーリーの定型性は隠蔽される。
キャラにさえ「新奇性」があれば、物語はどれほど古くさくても、黴臭くても、「新製品」として通用する。
そのようにして、「凡庸な物語の上を、わざとらしく新奇なキャラが走り回る」 という現在のマンガ状況の「ダークサイド」が形成されることになったのである。
この「キャラの斬新性によって、物語の定型性を隠蔽する」傾向は、そののちマンガを源流に、あらゆるジャンルに浸潤していった。
小説にも、音楽にも、演劇にも、そしてもちろん政治にも。
小泉純一郎以来の歴代の短命政権があらわにしたのは、私たちの政治構造はソリッドな「定型」に取り込まれており、 そこから脱出するためにはラディカルな変革以外に手立てがないのだが、それだけの力を政治家たちは持っていないので、しかたなしに「キャラ」を付け替えることで、「あたかも変革が試みられている」かのような様相を仮象することで、有権者たちのうつろな希望を満たそうとしてきた、ということである。
鳩山政権を罵倒した同じ有権者が菅政権に「期待する」ということは、論理的にはありえない。
そのありえないことが起きるのは、有権者自身が政治過程を「キャラ」の交代劇としてしか見ていないということを意味している。
根本構造は変わらない。
「キャラ」だけが変わる。
私はそのような表層的な変化に期待すべきではないと思う。
それは私が菅政権を支持していないということではない。
私はこの政権にはせめて2年くらいは続いて欲しいと思っている。
そして、有権者たちがこの「キャラ」たちにも飽き始め、「次のキャラ」への付け替えを望みだしても、そのようなうつろな「ニーズ」に応じることなく、私たちの国の政治的定型を形成している「構造」そのものに肉迫する作業に愚直に専念してもらいたいと思うのである。
くるくる回る
池上先生ご夫妻と赤羽さんがひさしぶりに神戸におみえになったので、三宅先生ご夫妻にお招きいただき、御影のジュエンヌというフレンチレストランで会食。
池上先生・三宅先生とごいっしょのときはつねに「カルマ落とし」を兼ねているので、私たちの仕事はとにかく必死になってお酒をのみ、ご飯を食べ、諸先生がたの財布の重さを軽減することに尽くされる。
むろん、私らごときがどれほど努力しても、先生がたの巨大なカルマは「五劫のすりきれ」ほどの影響も受けぬのであるが、それでも気は心である。
先生がたのご健勝と弥栄を祈って、シャンペンを飲み、ランプステーキを食す。
ぱくぱく。
池上先生のためにiPadを持参する。
先生はガジェットに弱い。
とくに「くるくるまわる」系ガジェットに弱い。
私の家には「銀河の風」というくるくる系ガジェットがあるが、これはもともと先生の新宿のアシュラムノバに置いてあったのを私が見咎めて、「せんせ、あれは何ですか?」とうかがったところ、「そばに置いておくと、楽器の音がよくなり、鋏の切れ味がよくなり、眼鏡もよく見えるようになるマホーの秘密兵器なのだ」と教えていただいた。
私はさっそくその製造会社の電話番号を教えていただき、現物をゲットした。
それを嬉嬉として家に置いて、くるくる回して楽しんでいたのだが、ゼミ生たちがやってきて、「これは何ですか?」と訊くので、「銀河の風なのだ」と教えた。
いくらだと思うね、と訊ねてみたところ、「6000円」というやつがいた。「それは安すぎるわよ、1万円くらいですよね?」ととりなす学生もいた。
あのね・・・
まあ、よい。
私は楽器や鋏ではなく、おもに「麻雀に際して勝ち運が到来するように」という限定的な目的のために「銀河の風」を設置したのであるが、どうも思うように勝てない。
考えてみたら、「風」はその場にいる全員に当たるのであった・・・
そんな「くるくる」系大好きな池上先生から先般三宅先生経由で、「Mova Globe」なるものが贈られてきた。
こんどは「ぐるぐる回る地球儀」である。
太陽光エネルギーなので、ほうっておいてもいつまでもぐるぐる回る。
いまもパソコンのディスプレイの横で律儀にぐるぐる回っている。
こういうものを見ていると、胸の奥がほっこりと暖かくなる。
おまえもがんばっているんだね。父さんもがんばるよ。
疑似著作権とブライアン・ウィルソンの気鬱について
『街場のメディア論』脱稿。
もう光文社さんにお渡ししてもよいのだが、なんとなくまだ直したい気がして、手元においてずるずるしている。
著作権のところをもう少し書き足さないといけないかな・・・と思っていたら、北澤尚登くんのところから送ってくる「骨董通り法律事務所」のメールマガジンに興味深い記事が載っていた(北澤くん、いつもありがとう。面白く読んでます)。
その中に少し前(去年の11月投稿)だけれど、「疑似著作権」というトピックがあった。
こんな話。
世の中には、理論的には著作権はないのだけれど、事実上著作権に近いような扱いを受けている(あるいは受けかねない)ケースがある。法的根拠はまったくないか、せいぜいが非常に怪しいものなのに、まるで法的権利があるように関係者が振る舞っている場面。「擬似著作権」と、ここでは名づけよう。
(・・・)著作権の保護期間の切れたキャラクターをめぐって、時折「擬似著作権」が生まれる。
例えば、ピーター・ラビット。著者のビアトリクス・ポッターは1943年没なので、死後67経過しており、「戦時加算」を入れても保護期間は切れている。
「戦時加算」とは、アメリカやイギリスなどの旧連合国の戦前・戦中の著作物について、日本での保護期間を最大で10年5ヶ月ほど延ばすという ルール。サンフランシスコ講和条約で日本側にだけ課せられた義務として導入された。敗戦国はつらいのだ。
この結果、1943年没のポターの戦前の作品は、日本では「著作者の死後50年」という原則が更に10年5ヶ月ほど延びるとしても、2004年以前に著作 権が切れたことになる(2007年の大阪高裁判決でも確認済み)。
だから、ピーター・ラビットは著作権が消滅した「パブリック・ドメイン」状態にある。「誰がその絵本を出版しようが、絵柄を使おうが基本的には自由」である。
しかし、日本ではそのようには理解されていない。
「ベアトリクス・ポター」や「ピーターラビット」という言葉には商標権があり、「それと似たマークを、類似する商品やサービスに使用すること」は禁止されている。
「商標権があれば、第三者がそのマークを「商標として使うこと」(=商標的使用)は制限される。だが効果は基本的にそこまでだ。商標として使うのでなく、 ピーターラビットの原画を誰かが出版するなどの利用では、これを止めることやお金を要求することは、原則としてできない。(・・・)
商標として主張したところで、一度切れた著作権を復活させたり、 無限に延命させる効果は、当然ない。しかし日本では、時に延命できてしまうのである。一見「知財権のような」もっともらしい権利主張に出くわすと、特にその者が欧米の権利者で複雑そうな警告表示をしていたり、強い後ろ盾があったりすると、とりあえず権利があるかのように許可を申請し、高額な使用料すら払う。ライセンス契約にはしばしば、こちらを将来まで拘束するような条件が記載されている。ライセンスを受けたという前例が既成事実化して、自分たち自身をしばる不思議な業界秩序ができあがる。
かくて、時として100年も前の作品が「永遠の著作権」を得て、どこかにいる権利者のために日本で高額なライセンス収入を稼ぐ事態が生れる。」(福井健策「疑似著作権-ピーターラビット、永遠の命をおまえにあげよう」)
「戦時加算」というものがあることは知っていたが、それは単に「戦争中はほかのことにいそがしくて、著作権の保護とか使用料の回収とかちゃんとできなかっただろうから、その分はみんな『なし』ね」ということだと理解していた。
そうではないのだ。
敗戦国だけに課せられた「罰金」だったのである。
この一事からも、著作権の扱いがすぐれて政治的なものであることが知れる。
著作権をふりまわして、その使用を制限してまわる人たちの中には、オリジネイターに対する敬意も、作品に対する愛情も、何もなく、ただ自己利益のためにそうしている人が多数含まれている。
私はこういう人たちの言い分に耳を貸すにはどうしてもなれない。
著作権にかかわる逸話でもっとも心痛むのは、ブライアン・ウィルソンのケースである。
ビーチボーイズの初期の名曲はウィルソン兄弟が設立した音楽出版社が権利をもっていた(ブライアンは端的に「自分がもっている」と思っていた)。けれども、グループのマネージャーだった父親は息子たちに嫌われ、音楽活動に首を突っ込むなと言われたことの腹いせに、権利を70万ドルで他人に売り払ってしまった。そのときのことをブライアンは次のように語っている。
「70万ドル?曲をただで渡すようなものだ。現在そのカタログは、2000万ドル以上の評価を受けている。しかし僕にとっては、それは金で買える類のものではなかった。それは僕の赤ん坊だった。僕の肉体だった。魂だった。そしていま、それはもう僕のものではなかった。」(『ブライアン・ウィルソン自叙伝』、監修・中山康樹・訳中山啓子、径書房、1993年、206頁)
そのようにしてブライアン・ウィルソンは父親から破壊的な精神外傷を受け、長い鬱の淵に淪落してゆくのである。
これはコピーライトの政治的使用のもっとも痛ましい例だろう。
たしかに、父親は法的手続きにしたがって、適法的に権利を行使した。
けれども、その意図はあきらかに「懲罰的」なものであった。
自分に反抗した息子に「罰を与える」ためにそうしたのである。
ほんらいクリエイターを保護し、その創作活動を支援するはずの法的権利がこのようなかたちで運用されるのはまちがったことだと私は思う。
著作権が権利として尊重されるのは、「それがクリエイターを保護し、その創作活動を支援する」限りにおいてであって、この条件を満たさないものについての著作権は認められるべきではないと私は思う。
クリエイター自身ではない著作権所有者が、他人の創作物の使用を制限したり、それについて「返礼」の支払いを要求したりすることに合理性があると私にはどうしても思えないのである。
成功について
イギリスに留学している学生から、質問がメールで届いた。「成功」についての論文を準備していて、各界のひと50人にアンケートして、その中の一人に指名されたのだそうである。
若い人が外国でがんばって論文を書いているのを支援するのは、大人の仕事のひとつであるから、質問に回答を書いた。
しかし、趣旨が今一つよくわからない。
論点はいくつかある。
一つは、「成功」には客観的指標があるのかどうか。
一つは、「成功」するには何をすればいいのか。
一つは、「みんなが成功する」ということはありうるのかどうか。
むずかしい問いだと思いませんか?
とりあえず、第一問にはすぐに答えられる。
「成功に客観的指標はない」
例えば、「年収2000万円を以て成功者とみなす」といった外形的ルールを定めた場合、年収1990万円の人は納得せぬであろう。
「テレビ出演年20回以上」でも「一部上場企業の部長以上」でもなんでもいいけれど、どれを定めても「ふざけるな」と怒り出す「自称・成功者」が五万と出てくるであろう。
第二の質問。
成功するには何をすればいいのか。
何しろ外形的指標がないのだから、目標設定のしようがない。
せいぜい「できるだけたくさんお金を稼ぐ」「できるだけたくさんメディアに露出する」「できるだけ偉くなる」くらいである。
そういうことを考えている人間がまわりにいたら、「まあ、がんばってください」という以外にコメントのしようがない。
第三の「全員が成功するということはありうるのか?」というの質問はおもしろい。
もちろん答えは「ノー」である。
というのは成功者が「私は成功者だ」という自己認識をもつとしたら、それは、「私は非成功者だ」と思っている人間の「できることなら、この人と立場を入れ替えたい」という羨望を実感した場合だけである。
「私は成功者だなあ」としみじみ感じるということはあまり考えられない。
それは「金持ち」の定義が「金のことを考えずに済む」だからである。
「歯のいい人」は歯について考えずに済む。視力のよい人は目について考えずに済む。
同じ理屈で「成功者」は「成功だの失敗だのいうことについて考えずに済む」人である。
だから、その人がしみじみと「ああ、私は成功者でよかったなあ」と思うのは、金持ちが貧乏人の痛ましい生活を垣間見た場合や、歯の丈夫な人が「インプラント手術は痛いよお」と泣いている人間の話を聴いた場合と同じように、「私は成功できなかった」とぐちぐち泣訴する人間の話を聴いているときだけである。
「成功している人間」には「私は成功している」という積極的実感はない。
「私は成功していない」という人間にはその実感がある。
「非成功」はリアルに受肉した観念であるが、「成功」は「非成功者からの『成功者』とみなされている」という迂回的なしかたでしか把持されない。
この片務性が興味深いと私は思った。
ただ、「歯のいい人」を見て、その歯を抜いて自分の歯と入れ替えたいと思う人間はいないが、成功者を見て、「できることなら立場を入れ替りたい」と思う人間はいる。
それは社会的条件が整った場合には(天変地異に遭遇したり、内戦や革命が起きたときには)実行に移される可能性がある。
そういうタイプの羨望がはらむ暴力性について知りたい人は魯迅の『阿Q正伝』を徴されるとよろしいかと思う。
だから、「成功」と「幸福」は一致しない。
「私は成功したが、幸福ではない」という文も「私は成功していないが、幸福である」という文も、どちらもふつうに有意味の文だからである。
「幸福」についての物差しはあくまで個人の主観的印象である。だから、「私は幸福である」という言明は他人が否定しても、私が宣言すれば成立する。
この言明を否定する権利は他者にはない。
「あなたが幸福であるはずがない」という反論を挙証することは現実的に不可能である。
しかし、「私は成功者である」という言明は他者の介入ぬきには存立しえないから、「あなたは成功者ではない。現に私はそう思っていない」という反論によって、成功の言明は否定可能である。
こんな例を考えればわかる。
人類が死滅して、世界最後のひとりになった人間がいたとする。
彼が「私は幸福な人間だ」という自己評価を下すことはありうる。
けれども、彼が「私は成功者である」と自己評価することはありえない。
そこには「あなたは成功者だ」と証言してくれる他者がもう存在しないからである。
「幸福」ももちろん他者依存的である。
けれども、「幸福感」が志向する他者はもっとずっと数が多い。
例えば、死者からの贈りものによって幸福感を覚えるということはありうる。
死んだ親の気遣いに、死後ずいぶん経ってから気がついて、「ああ、何とありがたい親だったのか」と感謝の念を覚えるなどというのは少しも珍しいことではない。
女性が懐妊して母になる予感に幸福感を覚えた場合、彼女を幸福にしたものはまだこの世界に存在していない。
だから、世界最後の男になった人が「死者たち」が彼に遺贈してくれたもの(書物や音楽や美術作品や食糧や薬品など)について「ありがとう」とつぶやくことはありうる。
それは、「幸福」には「もう存在しない人間」も「まだ存在しない人間」も、「同時代に存在するのだが会ったことのない人間、私のことを知らない人間」も関与することができるからである。
でも、「成功」はそうではない。
そこには、「できることなら彼と立場を入れ替えたい」と暗い情念をたぎらせている他者がどうしても必要である。
だから、なぜ人々が「幸福」について語るよりも「成功」について語ることを好むのか、私には依然としてよくわからないのである。
幼児化する男たち
『Ane Can』 という雑誌の取材を受ける。
『Camcan』のお姉さんヴァージョンである。
このところ女性誌からの取材が多い。
どうしてだろう。
わからない。
インタビュイーの選考は先方のご事情なので、私の与り知らぬことである。
お題は「愛と自立」
う~む。
「愛をとるか、自立をとるか」でお悩みの20代後半女性にアドバイスを、というご依頼である。
端的には「仕事をとるか、結婚をとるか」ということのようである。
つねづね申し上げているように、これは問題の立て方が間違っている。
仕事も結婚も、どちらも人間が他者と取り結ぶさまざまなinterdependent なかかわりの一つであり、どちらも人間が生き延びるためには「あったほうがよい」ものである。
「仕事もない、配偶者もいない」というのがワーストで、「おもしろい仕事もあるし、すてきな配偶者もいる」というのがベストであり、その間に無数のグラデーションがあるだけで、仕事と結婚は排他的な選択肢ではない。
にもかかわらず、このような二者択一的な問いが前景化する。
当然それなりの理由があるはずである。
おそらく「オレをとるのか、仕事をとるのか、どちらかに決めろ」というような無法なことを言う男と付き合っているからではないかと推察される。
この問いに答えること自体はむずかしいことではない。
というのは、このような問いを発する男は、その当の事実によって「バカ」であることが明らかだからである。
「オレをとるか、仕事をどるか、どちらかに決めろ」というようなことを言う男に対しては「仕事」と即答するのが正解である。
バカといっしょにいても、この先、あまりよいことがないからである。
だから、「え、やだ~。バカでもいいの。そんなすぐにはわかれらんないし~」という方には私の方からは別に言うべき言葉はない。
かつて「私と仕事と、どっちを愛しているの?」と訊くのは専一的に女性であった。
ただし、女性にとってこれはあくまで修辞的な問いであり、この問いの含意はストレートに「そんな『くだらないこと』してないで、私と遊びましょ」というラブリーなお誘いであった。
かかるオッファーに対して回答を逡巡するような男は再生産機会からただちに排除されてしまうわけであるから、答えは「もちろん君さ」以外にはありえない。
それに、男が夢中になってやっていることの過半は、分子生物学的スケールで見るならば「くだらないこと」以外の何ものでもないのである。
そのことを定期的に男たちに確認させるのはまことに時宜にかなったことと言わねばならない。
しかるに、男性が女性に向ける「オレと仕事とどっちをとるんだ」という問いには、女性が「私と仕事のどっちを愛しているの?」と訊くときにこめられたエロス性や遊戯性がほとんど感じられない。
たぶんこれは修辞的には問いのかたちをとっているが、「オレのエゴの撫で方が足りないぞ、おい」という幼児的な訴えなのである。
だから、「もちろん、あなたよ」などと宥和的な回答を以てしても、男は「ふん」と背中を向けて、「いまさら、ご機嫌とったって、遅いんだよ、バカ」的な対応しかせぬであろう。
幼児的な欲求が、幼児的に「だだ」をこねることで満たされた場合、人はその成功体験に固着するから、幼児性はさらに強化されることになる。
つまり、「愛と自立」の背景には、見た目よりもさらに深刻な「真の問題」が伏流していたのである。
それは「若い男たちがとめどなく幼児化している」という現実である。
『Ane Can』の特集は、本来は「幼児化する男たちをどうしたらよいのか?」というにべもないタイトルになるべきだったのである。
だが、ガールフレンドや妻がそんなタイトルを表紙に掲げた雑誌を携行しているところを見た場合、男性はその幼児性をさらに亢進させて泣きながら走り去ることは明らかであるので、販売戦略上、そうもゆかなかったのである。
日本の男性は急速に幼児化している。
これは動かしがたい事実である。
男子を成熟に導く「通過儀礼」的な人類学的装置が根こそぎ失われたためである。
30年ほど前までは左翼の政治運動というものがあり、これがいわば本邦における最後の大衆規模での「通過儀礼」であったかに思う。
当否は別として、左翼の政治運動はその参加者に「子ども時代の価値観を全否定すること」を要求したからである。
ところが現代では、うっかりすると「小学生時代の価値観」をキープしたまま中高年に達するものさえいる。
日本の男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対優位に立つことが人生の目的である」というものである。
これまでも繰り返し説いてきたことだが、「同学齢集団のコンペティションでの相対優位」が意味をもつのは、「ルールがあり、レフェリーのいる、アリーナ」においてだけである。
例外的に豊かで安全な社会においては、「競争に勝つ」ことが主要な関心事になることができる。
しかし、人類史のほとんどの時期、人類は「それほど豊かでも安全でもない社会」を生き延びねばならなかった。
そういった状況においては「競争において相対優位をかちとる能力」よりも、「生き残る能力」の方が優先する。
「競争に勝つこと」よりも「生き残る」ことの方がたいせつだということを学び知るのが「成熟」の意味である。
現代日本男子の幼児化は、深刻な社会問題である。
しかし、それを俎上に載せるべき社会学者たちも心理学者たちもジャーナリストたちも、軒並み「幼児化」してしまったので、それが「深刻な社会問題である」という事実そのものが意識化されないままなのである。
怖いですね。
英語公用語化について
「ユニクロが公用語、英語に」という新聞の見出しを見て、「UNIQLO」という単語が英語の辞書に採択されたのか、すげえと思っていたら、そうではなくて、社内の公用語が英語になったのである。
日本の企業ではすでに日産と楽天が公用語を英語にしているが、ユニクロも「日本のオフィスも含めて、幹部による会議や文書は基本的に英語とする」ことになった。
柳井正会長兼社長は「日本の会社が世界企業として生き残るため」と語っている。
海外で業務ができる最低限の基準として、TOEIC700点以上の取得を求めるのだそうである。
こんな時代にサラリーマンをしていなくてよかったなあ、と心底思う。
英語が公用語という環境では、「仕事はできるが英語はできない」という人間よりも「仕事はできないが英語ができる」という人間が高い格付けを得ることになる。
英語が公用語になったある学部では、英語運用能力と、知的ランキングが同期してしまって、授業が困難になったという話を聴いたことがある。
その学部では「ネイティヴスピーカー」が知的序列の最上位に来て、次に「帰国子女」が来て、最後に「日本育ちで、学校で英語を勉強した人間」が来る。
日本人教師たちのほとんどは最後のグループに属するので、教師が授業で何かを訥々と話しても、ネイティブが滑らかな英語でそれを遮り「あなたは間違っている」というと、クラスは一斉にネイティブに理ありとする雰囲気になってしまうのだそうである。
教師はたまりません、とその学部の先生が涙目で言っていた。
これもある大学の話。
ネイティブの教員が教授会で、この大学の教員はバカばかりで、私に英語で話しかけてくる同僚がほとんどいないと(英語で)演説したことがあった。
この人は「自分に誰も話しかけてこないこと」の理由をもっぱら同僚たちの英語運用能力の不足に求めていたが、「厭なやつには誰も話しかけない」という経験則を勘定に入れ忘れた彼女の知的不調こそがコミュニケーション失調の主因ではないかという可能性は考慮しなかったようである。
というように日本の組織で、英語を公用語化した場合には、いろいろな悲喜劇が展開することになる。
私自身は「リンガ・フランカ論」でも書いたように、国際共通語の習得は日本人に必須のものだと思っている。
ただ、その習得プロセスにおいては、決して「言語運用能力」と「知的能力」を同一視してはならない、ということをルール化しなければ「植民地主義的」なマインドと「買弁資本的おべんちゃら野郎」を再生産するリスクが高いということは繰り返し強調しておかなければならない。
リンガ・フランカの習得のためのルールをもう一度確認しておく。
(1) 会話中に、話者の発音の間違い、文法上の間違いを指摘してはならない
(2) 身ぶり手ぶりもピジンもすべて正規の表現手段として認める
(3) 教師は「英語を母語としないもの」とする
以上三点である。
この条件が満たされなければ、国際共通語を国民的規模で円滑に習得させることはできないと私は思う。
英語とリンガ・フランカはまったく別のものである。
リンガ・フランカは英米文化とは「まったく無関係」の純粋なコミュニケーション・ツールである。
ツールである以上、それは徹底的に道具的に使用されなければならない。
それは「道具を使ってやる仕事の完遂」が「道具運用技術の巧拙」よりも優先するということである。
真に実践的な精神は、料理をするときにトンカチを使い、糸鋸を使い、凧糸を使い、ホッチキスを使うことを厭わない。
素材や調理法が要求するなら、どんな道具でも繰り出そうじゃないの、というのが真の料理人である。
私はこの関孫六の包丁一本しか使わないという人は「刃物フェティッシュ」ではあっても料理人ではない。
その順序を過つと(たぶん過つと思うが)、英語を公用語にした企業の未来はあまり明るくないであろう。
特別顧問就任
先週の金曜に、大阪市役所で大阪市特別顧問の委嘱式というのがあった。
平松邦夫市長から、「委嘱状」というものをいただく。
そのあと市長といっしょに記者会見。
特別顧問就任の「抱負」をどうぞと市長からいわれる。
考えてみれば、そのようなことを言わなければならないに決まっているのであるが、促されるまで、何も考えていなかった。
市長からの依頼は、「ときどき会って、美味しいものでも食べながら、あれこれ話きかせてください」というきわめてアバウトかつフレンドリーなものであったので、改めて「抱負を」と言われて困ってしまった。
市長からはとくに教育方面についての助言をいただきたいとお願いされていたのであるが、ご存じの通り、私の年来の主張は「政治は教育に介入してはならない」というものである。
政治とマーケットとメディアは教育に口を出さない方がいい。
というのは、私の年来の主張である。
教育のことは現場に任せて頂きたい。
というわけで、抱負を訊ねられたことを奇貨として、記者諸君には「メディアは教育には口を出さないで頂きたい」と申し上げ、市長には私からの渾身のアドバイスとして「首長はできるだけ教育現場に個人的信念を伝えることを自制していただきたい」と申し上げる。
もちろん市長は私のそういう考えを熟知された上で、特別顧問に委嘱されたのであるから呵々大笑されていた。
去年の10月にはじめてお会いしたナカノシマ大学の「21世紀懐徳堂シンポジウム」(市長とワッシーと釈せんせといっしょ)での私の冒頭の発言は、「懐徳堂的な教育機関を21世紀に再生しようとしたら、それは市民の発意によるべきであって、行政に依存してはならない」というものであった。
市長は「教育は行政から独立的であるべきだ」という私の主張のうちに掬すべきものがあると思われたからこそ、あえて行政の長として、私を特別顧問に委嘱されたはずである。
メディアは教育に口を出さないでいただきたい、というのもまた私の年来の主張である。
近刊『街場のメディア論』には、メディアのせいで教育現場がどれほど混乱させられてきたのかについて、縷々(どころではないな)恨みごとが綴ってある。
教育はその本性上、きわめて惰性の強い人類学的制度である。
子どもを成熟に導くシステムにそれほどくるくる「変化」があっては困る。
しかし、メディアはその本性上「変化」以外のものに関心をもたない。
変化しないものは「ニュース」にならないからである。
メディアは教育制度に「絶えざる変化」を求めるけれど、それは教育にとってはたいへんに迷惑なことである。
私が教育にかかわる特別顧問としてできることは、政治とメディアの影響を退けて、大阪市の各級教育委員会と各学校での教育活動の独立性と自由裁量権を支援することである。
むろん一大学教員からのモラルサポートにすぎないけれど、それでも、教育に政治過程が影響力を行使することは望ましいことではないという考えをもつ人間を市長が教育にかかわる助言者に指名したということの意味は教育現場には伝わるはずである。
サッカー見たり、株主総会出たり、政治家になる可能性について考えたり
土曜日は合気道のお稽古、それから6月例会。
このところ絶不調であり、今回も3戦して、勝てず。
サッカーを見ていると、よく「ゴールが遠い」という言い方をするが、それに倣って言えば「トップが遠い」。
それゆえ、渾身のシュートがノーゴール判定されて、天を仰ぐイングランドの8番、フランク・ランパードの絶望的な表情にウチダは深い親近感を覚えるのである。
この瞬間、世界でもっとも深く共感された人間は君だと思うよ、フランク。
だって、「人生って、ほんとにそういうもん」だから。
君はこのノーゴール判定ゆえに、サッカー史に名前をとどめることになるだろう。
悲劇性こそがサッカープレイヤーとしての「栄光」のありかただからである。
あらゆるボールゲームの起源は他者との共感のプラットフォームを形成することである。
私たちは敗者に共感する。
だからトーナメントは一チーム以外すべてが敗者になるように(勝者も勝ち続けることができないように)制度設計されているのである。
敗者に一掬の涙と花束を。
コマノくんもあまり気を落とさないようにね。
日曜日は光嶋くんと設計の詰め。
道場、住居部分の細部がだんだん固まってくる。
午後から長田の上田能楽堂で下川先生の『遊行柳』を見る。
帰って、大倉源次郎先生の『大和秦曲抄II』を見る。
連続5時間くらい能の音楽ばかり聴き続けたので、身体が「能化」してきた。
一調の緊張感がすばらしい。
月曜日。
下川先生のお稽古。謡『藤戸』と仕舞『笠之段』。
来年の大会は『笠之段』である。
それから大学へ。会議が一つ。それからサキちゃんの修論面談。
「弱者支援の倫理的基礎づけ」というたいへん重い問題を提示してくる。
サキちゃんて、根はまじめな子だったのね(いや、前からうすうすそうではないかな~と思ってはいたのですよ)。
それから堂島に行って、平川くんと会って、140Bオフィスにて、ラジオデイズのための収録。
大相撲とサッカーの話で1時間。
大相撲は「あのようなもの」として存在する意味があると私は思っているけれど、その理論的基礎づけを誰も担っていないことが問題である。
相撲は神事であり、伝統芸能であり、呪術儀礼であり、スポーツであり、フリークショーであり、格闘である。
同時にその全部である。
これほど多様な機能を担う「芸事」は他に存在しない。
その雑種性において相撲はきわめて「日本的」なものだと私は思う。
相撲の本義はおそらくこの「異種架橋」能力のうちにある。
その起源はおそらく太古のどこかで、言葉の通じない異族同士が出会ったときに遡るのだと思う。
そのときに、ふたりの男が裸形となって、柏手を打ち、大地を踏み、「浄め」の儀礼を行い、歌を歌い、そしておそらく同じ動作を鏡像的に反復してみせたのである。
勝敗を競うのは、擬制的に勝敗を競うことで、鏡像関係がもたらす暴力性を抑制することができるということを古代人が知っていたからである。
だから、相撲においては、極端な話、「勝敗はどうでもいい」のである。
それを「フェアプレー精神から見てどうか」とか「スポーツマンシップが蜂の頭」とか言うのはまるで見当違いな話である。
けれども、ついに「相撲の人類学的意味」について、科学的な言葉で語る人は出てこなかった。
それはアカデミアの側の問題なのか、相撲界の側の問題なのか、わからない。
相撲はその存立の危機にさしかかっているけれども、「相撲の科学」が今こそ必要だという言葉はどこからも聴かれない。
140B株主総会のあと、串カツ懇親会。
140Bは第四期も順調で、黒字決算。
めざせ10割配当!
平川くんがうちに泊まったので、ごろ寝しながら、サッカー観戦。
火曜日。
ゼミが二つ。そのあいだに取材。
ウェブ上に「多事争論」というコラムがあって、そこに掲載するための談話取り。
四人お見えになる、うち二人が筑紫哲也さんのご遺児。
名刺交換してから、頭の中で「ブログで筑紫哲也の悪口書いてないよな・・・」と必死に記憶を探る。
たぶん書いてないと思う。
筑紫哲也の「語り口」についてはずいぶん批判的な人がいて、私もその批判の所以はわからないでもなかったが、「リベラル派のインテリおじさん」は日本の宝であるという信念に基づき、その種の批判に同調することは自制したのである。
マスメディアの凋落と再生の可能性について、いろいろとお話する。
最後にご令嬢から「もし政界への出馬要請があったらどうしますか?」という質問を受ける。
筑紫さんも一度だけ「心が揺れた」ことがあったそうである。
家族会議で否決されて、断念を余儀なくされたのだが、そのときに出馬を否とした家族の判断が正しかったのかどうか、今ではよくわからないと率直に話されていた。
なるほど。
ただ、私はもうあと半年ほどで「隠居」の身であり、もう「立場上、言いたいことが言えない、したいことができない」ということに疲れ果てている(これでも私は「言いたいこと」の半分も言っていないのである。日々どれほど「腹膨るる」思いをしているか、ご想像いただけるであろう)。
誤解している方が多いが、私は徹底的に「書斎の人」なのである。
許されるならば、一年365日朝から晩まで書斎にこもって、本を読み、ノートを作り、原稿や論文を書くことさえできれば至福の人なのである。
世の中には、仕事で外へ出かけて、他国を旅し、見知らぬ人と会ったり、はじめて経験することを試したりすることが大好きという人がけっこう多いが、私はまったくそうではない。
私は散歩さえしない人間なのである(1993年春に山手町を10分ほど歩いたのが最後の散歩であり、それからあと一度もしたことがない)。
旅行も嫌いである。
例外的にドライブだけは好きだが、それも「いつもと同じ道を、いつもと同じように走る」のが好きで、はじめての道はどきどきするのでさっぱり楽しくない。
講演とか、対談とかいうのも、正直言うと、あまり好きではないのである。
「そのわりにはよく対談してるじゃないか」というご異論がおありだろうが、よく見て欲しい、あれは全部「ともだち」とやっているのである。
ときどき友だちと会って、思い切りおしゃべりがしたいなあと思うことがあるとその企画に乗るだけで、「知らない人」との対談というのは原則やらないのである。
そんな人間に、政治家なんかできるはずがないです。
東京と私
東京新聞に「わが町、わが友」という6回連載エッセイを書いた。
思い出に残る東京の町について書いてくれと頼まれた。
東京新聞だと、読んでいる人は限られているので、ブログで一挙公開することにした。
どぞ。
下丸子(1)
私は東京生まれだが、20年前に東京を離れ、以後ずっと関西在住である。もちろん、今も東京にはよく行く。母や兄や娘が住んでいるし、友人たちも大勢いる。でも、「東京に帰る」という言い方はもうしない。関西に引っ越してきてから、しばらくは「東京に帰る」という言葉に実感があった。多摩川の鉄橋を渡るときには「故郷に戻ってきた」という気がした。だが、あるとき電車で西に向かっているとき、夕陽を背にした六甲の山並みのシルエットを見て「ああ、もうすぐ家だ」と思ってほっとしたことがあった。その瞬間に東京は「私の街」ではなくなった。
このコラムで私が語るのは「かつて『私の街』であった街」についての回想である。もちろんまだその街並みは残っており、そこに立てばと懐かしさを感じないわけではないけれど、そこへの「つながり」はもう感じない。
目蒲線の下丸子が私の生まれた街である。東京の東のはずれ、多摩川沿いの工場街である。戦前には、三菱重工や日本精鋼のような巨大な軍事産業の拠点がこの地域にあり、下請けの中小の町工場がそれを取り囲むように下丸子から蒲田に至るエリアに拡がっていた。工場労働者のためのアパートがあり、しけた歓楽街があった。むろんB29による空襲の恰好の目標となり、戦争が終わったときには一帯はみごとに破壊し尽くされていた。
父は大陸から身一つで戻ってきて、母と出会って結婚して、兄が生まれ、その二年後に私が生まれた。戦争が終わって五年後のことである。その焼け野原にぽつぽつと家が建ち始めたときに、父母がここに移り住んできた。私はそこで生まれた。
「下丸子」(2)
私を懐妊していた母が乳呑み児だった兄を抱いて、旗の台の下宿から下丸子の一戸建てに引っ越してきたとき、移動手段は馬を繋いだ大八車だった。戦争が終わって五年後の東京というのは、まだそういう場所だったのである。
下丸子は戦前戦中軍需産業で栄え、それゆえ空襲で徹底的に破壊された街であった。私の幼児期の記憶では、家の前は青々とした麦畑があったが、その牧歌的な風景は場違いに巨大な工場のシルエットとそこから流れるきつい化学臭のする排水によって不意に遮られていた。多摩川の河原は家から歩いて10分足らずのところにあったが、その草原の生々しい温気に身を投じて大の字になって青空を仰ぐためには、コンクリートで固められ、高い塀で左右の風景を封殺された工場の間を貫く舗装道路を歩かねばならなかった。
子どもたちはもちろん「原っぱ」で遊んだ。だが、その「原っぱ」は、その言葉が連想させるような手触りの優しいものではなく、ガラスの破片や焼け焦げたセメントの土台や陥没したタイル張りの地下室を雑草が無遠慮に覆っているだけの場所だった。ただ、そこに生い茂る雑草には、喩えて言えば、「最終戦争が終わった後、無人となった都市の廃墟を青々と覆い尽く植物」に似た固有の生命力があった。その雑草ののびやかさとしたたかさおそらく1950年に生まれた東京の子どもたちにも共通する特質ではなかったかと思う。宮崎駿の『天空の城ラピュタ』には空中都市の廃墟に繁茂する植物のすばらしい勢いが活写されているが、それはあの敗戦後の東京の原風景から連想されたもののように私には思われる。
下丸子(3)
目蒲線の下丸子に私は17歳まで暮らした。都内でもっとも長く暮らしたのはこの街である。だから、私が「故郷の街」を選ぶとしたら、ここの他にない。けれども、その街に対して「郷土愛」のようなものを持っているかと訊かれたら、答えは「ノー」である。
その街で私は育ったが、その街に「育てられた」というような感懐を持つことができない。そこはふつう人々が「ふるさと」というときに思い浮かべるような「手がかり」が何もなかったからである。
以前、鷲田清一、江弘毅という関西生まれの文化人ふたりを相手にラジオ番組で話をしたとき、東京と関西の文化のクオリティの違いに論が及んだことがあった。そのとき、二人がそれぞれに「生まれた街からの文化的な贈り物」について語るのを聴いて、一緒に番組に出ていた同郷の平川克美くんともども絶句した覚えがある。
クオリティが高いも低いも、私たちが生まれた東京の町には、よそと比較できるような「文化」など何一つなかったことを思い知ったからである。私たちの故郷には、守るべき祭りも、古老からの言い伝えも、郷土料理も、方言さえもなかった。かなしいほどの文化的貧困のうちに私たちは育ったのである。
小津安二郎はこの町を舞台に映画を一本撮っている。『お早よう』という1959年の映画で、そこには私の子ども時代の多摩川の河原やガス橋の遠景がそのままのかたちで焼き付けられている。私は現実の下丸子には何の感懐も覚えないが、この映画の中の風景には今も胸が熱くなる。下丸子を多少とでも「文化」的文脈のうちで語れるこれが唯一の手がかりだからである。
相模原から駒場へ
下丸子に17歳までいた。それから一年半だけ小田急相模原で過ごした。桑畑を切り開いた分譲地に父が家を建てた。駅前には米軍病院とハウスがあり、西には座間基地があった。ベトナム戦争が激化する頃で基地には夜中もヘリコプターがうるさく発着していた。世界は激動していたが、私は大学に入るまで「激動」からは目を背けることに決めていた(二年で「激動」の予兆にうかれて高校を中退し、中卒プロレタリアとして半年を過ごしたあと、私は「受験勉強は低賃金労働よりはるかに楽である」という真理を骨身にしみこませた模範的受験生に仕上がっていた)。すしづめの小田急に乗ってお茶の水の駿台に通い、予備校の仲間と麻雀をして、ジャズとロックを聴き、埴谷雄高と谷川雁と平岡正明を読んでいるうちにたちまち一年が終わった。
合格発表の直後に私は春休みの駒場寮に空手部の部室を訪れた。三年生の副将がひとりでベッドで寝ていた。「入学したら空手部に入りますから、春休みの間にこの部屋に引っ越してきていいですか?」という私の非常識な申し出を彼は笑って受け容れてくれた。翌週、兄の運転する軽四トラックにわずかばかりの本と着替えを載せて、私は寮に移った。
駒場寮についてはその伝説的な不潔さについて書くにとどめよう。私たち一年生部員は決して北側の窓を開けてはいけないと上級生から厳命されていた。上階の寮生たちが窓から放つ「寮雨」が降り込むからである。一年生は入寮してすぐに過半が痔疾を患った。湿度と不潔さと飲酒のせいである。OBを殴って退部になるまで私は半年間をその部屋で過ごした。
お茶の水
駒場寮を追い出されてから、野沢の学生寮に一年ほどいた。家賃は安かったが、狭く日当たりの悪い部屋だったし、ガールフレンドを連れ込んだことで他の寮生たちと気まずくなり、気分転換にお茶の水に引っ越すことにした。父の転勤と兄の結婚で家族の去った屋敷に高校時代の友人がひとりで暮らしていた。電話も、風呂も、冷蔵庫も、クーラーもついていて、親がいないという絶好の条件だったのでたちまち悪い仲間たちが蜜に群がる蟻のように集まった。最盛期は五人が住み着き、政治的密談も宴会も麻雀もなんでもOKの「梁山泊」の体をなしていた。あの時期、みんなが好き放題に使っていた電気や水道や電話の料金は思えば友人の親が支払っていたのである。若者というのはまことに利己的かつ非常識なものである。小口家のみなさんにはこの場を借りて40年前の非道をお詫びしたい。
エンドレス・サマー的キャンプ生活にもいささか疲れて、物静かなルームメイトをみつけて自分でアパートを借りて住むことにした。ルームメイトはバイト先で知り合った学生で、輝かしい政治的キャリアを持ち、低く静かな声で話す、笑顔の爽やかな青年だった。これは良い人と知り合ったと喜んだのもつかの間、彼は約束も義務も自己都合で忘れることのできる「生きる無責任」のような男であった。自分の服も本も鍋釜もアパートに置き去りにし、私の蔵書を二三冊借り出したまま、彼はある日姿を消した(その後、あるテレビ局のプロデューサーになったと聞いた。私がテレビというメディアを信用しないのはいくぶんか彼のせいである)。
自由が丘
73年に自由が丘に部屋を借りた。それから神戸に移るまで自由が丘近辺に住み続けて離れなかった。この街に深い愛着を私が寄せる最大の理由は、この街の名を冠した「自由が丘道場」で生涯の師である多田宏先生に出会ったからである(自由が丘は多田先生の生まれた街でもある)。
定職もなく、あてのない日々を送っていた冬の夜、自由が丘駅南口の薄暗い通りを歩いているときに古い道場の前を通りかかった。中からあかりが洩れて、道着を着た人たちが数人で稽古をしている様子が見えた。立ち止まって中を覗いた。有段者らしい人が稽古の手を止めて、私に近づき「見学されるのでしたら、どうぞ中へ」と笑顔で話しかけてくれた。言葉づかいの丁寧なことに驚いた。いわゆる「体育会」的体質が生理に合わない私は初心者へのこの気づかいを多として合気道の何であるかも知らぬままに入門の手続きをした。
多田宏先生とお会いしたのはその数日のちである。納会の席で、先生の隣に膝を進めて自己紹介をした。「内田君はなぜ合気道を始めたのですか」と訊かれて、私は「喧嘩に強くなるためです」と答えた。愚かな答えだったが、あるいは無意識的に私は先生を試そうとしていたのかも知れない。先生は破顔一笑して、「そういう動機から始めても、よい」と答えた。「君はこれから君が求めているものは違うものを私から学ぶことになるだろう」と先生は私に暗に告げたのである。私はその瞬間にこの人を師とすることに決めた。爾来35年、今でも「自由が丘」という地名を口にするたびに私はそのときの心の震えを思い出す。
私の本棚
金曜に関川夏央さんと朝カルで対談。
「クリエイティブ・ライティング-大学で文学を教えること」というタイトルで、主に「そういう話」をするつもりでいたのだが、最初の方で、関川さんが漱石の『坊っちゃん』の話をしたので、ついそのまま漱石や一葉や田山花袋の話になって、大学で教える云々は終わり20分間くらいしかできなかった。
でも、面白かった。
小説を読むというのは、(哲学でも同じかもしれないけれど)、別の時代の、別の国の、年齢も性別も宗教も言語も美意識も価値観もちがう、別の人間の内側に入り込んで、その人の身体と意識を通じて、未知の世界を経験することだと私は思っている。
私の場合はとくに「未知の人の身体を通じて」世界を経験することに深い愉悦を感じる。
だから、私が小説を評価するときのたいせつな基準は、私がそこに嵌入し、同調する「虚構の身体」の感覚がどれくらいリアルであるか、ということになる。
私が自分の生身の身体で世界を享受しているのとは、違う仕方で、私よりもさらに深く、貪欲に世界を享受している身体に同調するとき、小説を読むことの愉悦は高まる。
だから、読んでいるうちに「腹が減る」とか、「ビールが飲みたくなる」とかいうのは小説として総じて出来がよいと申し上げてよろしいかと思う。
私は高校生の頃に「ギムレット」というのがどういう飲み物であるのかを知らなかった。
けれども、チャンドラーの『長いお別れ』によって、夕方五時のロサンゼルスの開いたばかりの涼しいバーカウンターで、一日最初のギムレットを飲むときの愉悦を先駆的に経験した。
それからずいぶん経って大人になってから、ギムレットを飲んだ。
美味しい飲み物だと思ったけれど、その美味の75%くらいはフィリップ・マーロウからの贈り物である。
そういえば、書物と身体のかかわりについて書いたものがあった。
関川さんと話している時にも、それについて言及したけれど、どこかの出版社の広報誌に掲載したものである。
タイトルは「私の本棚」
私の最初の本棚は子ども部屋に置かれた四段ほどの小さなものだった。でも、そこには小学校四年生の夏まで、教科書以外にはほとんど何も入っていなかった。その頃までの私はマンガ以外の本を読む習慣を持たなかったのだが、親がマンガの購入を許可してくれなかったからである(私は友人の家を訪ね歩いては、そちらの蔵書を拝見していた)。
読書家であった両親は私がマンガしか読まないことを懸念して、思い立って講談社版『少年少女世界文学全集』の50巻のシリーズの購入に踏み切った。私は(今からは想像することがむずかしいが)当時は従順な子どもであったので、「これから毎月一冊ずつ本が届くから、読むのだよ」と親に命じられると、素直にそれに従った。
最初に届いた本は「東欧・南欧編」だった。『黒い海賊』と、『パール街の少年たち』が収録されていた。内容はほとんど覚えていない。マンガの方がずっと面白いなと思っただけである。
だが、私は(しつこいようだが)従順な子どもだったので、がまんして最後まで読んだ。毎日学校から帰ってきて、決まった時間に本を開いた。それでも、読み通すのに一月以上かかった。読み終わる前に次の本が届いた。これには『ガリバー旅行記』と『クリスマス・キャロル』が収録されていた。これはたいへん面白く、十日ほどで読み終えた。本を読む速度というのは、こんなに早くなるのかと、ちょっとびっくりした。私は本が届くのが少し楽しみになってきた。そんなふうにして私の小さな書棚はこの全集が配本されるたびにゆっくり確実に埋め尽くされていった。
私の読書生活に最初の転機をもたらしたのは、ルイザ・メイ・オルコットの『若草物語』だった。南北戦争の頃のニューイングランドの四人姉妹の静穏な日々を描いたこの物語のどこが私の琴線に触れたのかわからないけれど、私は暗記するほど繰り返し読んだ。何度も読んですでに熟知している文章を読み返すことが不思議な喜びをもたらすことを私はこのとき知った。
それからサンドの『愛の妖精』に出会った。ファデットの身になってランドリとシルヴィネのどちらを好きになればいいのかを考えているうちに、急に胸が高鳴り、頬が熱くほてってきた。小説の中の登場人物に深く同一化すると、遠い国の、遠い時代の、見知らぬ人の人生を内側から生きることができると知ったのはジョルジュ・サンドのこの小説によってであった。
それから、『あしながおじさん』、『小公女』、『赤毛のアン』、『アルプスの少女』と立て続けに少女小説の名作が届けられた。私はすっかり少女小説に夢中になってしまった。自らを少女に擬して、ミンチン先生を恨んだり、ジュリアをやっかんだり、マリラに訴えたりすることはたいへん楽しかった。
残念ながら、面白い「少年小説」というものにはなかなか出会うことができなかった。もちろん、『宝島』や『十五少年漂流記』のような、少年たちを主人公にした小説はなくはないのだが、どうも少年たちは少女たちに比して「内面がない」ように私には思われたのである。少年たちはいろいろ冒険的なことをするのだが、その前にほとんどものを考えないのである。少年たちが逡巡したり、葛藤したりするとき、それは単なる「行動の停滞」に過ぎないように思われた。私は「行動する前にあれこれ考える」少女たちの心象にすっかりなじんでいたので、ハックルベリー・フィンなんかに対しては「もう少し『ためらう』といったことをキミはしてもよろしいのではないか」という不満を抱いたのである。
私が「ためらう」少年と出会ったのは、エーリッヒ・ケストナーの『飛ぶ教室』においてである。この作品で私ははじめて「内面を持つ少年」というものに出会った。
小学生であった私自身は、それまで厳密な意味での「内面」というものを持たなかった。「口に出さないでいること」はもちろんあったが、それはもっぱら外的な禁圧が「口にすることを許さないこと」であった。それ以外のことで私が黙っていたとすれば、それは「自分の愚かさ、あるいは自分の卑しさ」を人に知られたくなかったからである。
だが、ケストナーの小説の中の少年たちが抑制的な態度をとる理由はそうではなかった。彼らが「内面」の発露を自制するのは、たいていの場合、人を傷つけないためか、自分の誇りを失わないためであった。彼らは「孤独の悲しみ」や「恵まれた級友に対する羨望」や「不正に対する怒り」や「卑劣さに対する軽蔑」をときにつよく感じたが、それが適切な場面で、適切な相手に対して語られる時が来るまで、心の中でゆっくり熟成させていた。「内面」というのは、時間をかけて熟成させてゆくことで言語化されるのだということを私が学んだのは、現実の年長者からではなくて、このドイツ人作家が描き出した少年たちの像を通じてであった。
こうして振り返って見ると、幼い私の「感情教育」は『若草物語』に始まって、『飛ぶ教室』で仕上げられたように思われる。それはだいたい10歳から12歳にかけての二年間に当たる。
その頃、私は病弱で、しばらく伊豆の養護施設に入って、また東京に戻ってきたこともあって、クラスに親しい友人もなく、授業が終わると、野球や相撲に興じているクラスメートに背を向けて、まっすぐ家に戻り、ひたすら本を読んでいた。
少年少女世界文学全集で「読むこと」の喜びと基礎的なリテラシーを学んだ私は次に父母の書棚に不法侵入を企てた。新潮社の『世界文学全集』は敷居が高かったので、とりあえず筑摩書房の『世界ノンフィクション全集』を抜き出して、いくつかを読んだ。最初に読んだのはトール・ヘイエルダールの「コンチキ号航海記」だった。全集の中でいまでも記憶に残っているのはビリー・ホリディの『奇妙な果実』(これは油井正一と大橋巨泉の訳だった。私はこの人がラジオ関東の『昨日の続き』のパーソナリティと同一人物であることにしばらく気づかなかった)、ニジンスキーの伝記『牧神の午後』、レオポルド・インフェルトのガロア伝『神々のめでし人』、ロバート・キャパの『ちょっとピンぼけ』もこの全集で読んだ。「世界はずいぶん広いものだ」ということを私はこれらの本から学んだ。
父の書棚には吉川英治のコンプリートコレクションがあった。私は手始めに『宮本武蔵』を読み、たちまち夢中になった。それから『新・平家物語』を読み、『新書太閤記』を読み、『私本太平記』を読んだ。中学生になってから古文と日本史の成績がたいへんよかったのはそのおかげである。
そのあとはもう「禁書」しか残っていない。とりあえず、源氏鶏太や石坂洋次郎や獅子文六のサラリーマン小説と松本清張の推理小説を読んだ。ある日、五味康祐の武芸帳ものを読んでいるところを母に見つかって、ずいぶん叱られた。親たちは「18禁」的なものを禁じていたというより、大衆小説に充満している「俗情」に子どもがはやくに触れることを好まなかったようである。明治の人である父は家の中で子どもが「金の話」をすることを許さなかったのである。
盗み読みが発覚しないように細心の注意を払って、次は五味川純平の『人間の条件』を読んだ。私が陸軍内務班という不条理な制度について最初に学んだのはこの本からである。この読書はまちがいなく、私の中のその後の「反体育会」性向をかたちづくったようである。
父は自分のための小さな書棚を有しており、そこには十冊ほど、厳選された「難しい本」が並べられていた。それには家族は手を触れることが許されていなかった。でも、それが必ずしも父の愛読書というわけではなく、来客に「私はこんな本を読んでいるのだ」と誇示するための「知的装飾」であることに私は少し気づいていた。でも、日曜の午後などに、父はそこから文庫本を抜き出して、ピースの紫煙をくゆらしながら頁をめくっていた。そして、ひとしきり斜め読みすると、かたわらの私に向かって「お前にはむずかしくてわからん哲学の本だ」と言ってまた書棚に戻した。小学生の私は、自分は果たしてそれが読めるような知的な大人になれるだろうかとつよい不安を感じていた。それは『異邦人』という題名の本だった。
そのあとのことを思うと、私はほとんど家の書棚によって作られた人間のようである。
ガラパゴスも住めば都
「ガラパゴス化する日本」をどうやってグローバル化するか。
という問題設定を自明のものとすることに対して私はいささか懐疑的である。
ガラパゴスでいいじゃないか、と思うからである。
誰かがガラパゴス的な役割を演じないと、全地球的なシステムにとってバランスが悪いのではないか、と思うからである。
「ガラパゴス」にしか育たない植物があり、そこでしか棲息できない動物があり、そこにしか見られてない固有の進化の歴程がある。
世界中の人が罹患するウィルスの特効薬が「ガラパゴス」だけにいる珍妙な粘菌からしか採取できず、「ガラパゴスがあってほんとうによかったね」と人々が手を取り合って泣き崩れる・・・というようなことだって「絶対、ない」とは言い切れない。
私は「生物学的多様性」をシステム全体の安定のためにつねに配慮するという立場の人間である。
限られた資源を非競争的に配分し、できるだけ多くの生物種が共生できるようにするためには生態学的地位を「ずらす」ことが必要である。
種ごとに、夜行性であったり昼行性であったり、肉食であったり草食であっったり、地下生活であったり樹上生活であったり、生き方を「ずらす」ことによって生物たちは狭い空間、限られた資源の上に重畳するように棲息してきた。
グローバリゼーションというのは、平たく言えば、生態学的地位を「なくす」ということである。
棲息条件を同一にしなければ、個体の能力や成果の相対的な良否は考量できないからである。
分かち合う資源が豊かであれば、標準化や規格化は場合によっては好ましい結果をもたらす。
能力ランキングの最下位に格付けされてもなお十分に自尊感情が維持できるほどに豊かな生活が保証されているなら、私は競争を必ずしも排するものではない。
しかし、競争に負けると「餓え死にする」というようなタイトな条件においては、相対的優劣を競う暇があったら、生態学的地位を「ずらす」ことで、できるだけ多くの個体が生き延びられる工夫の方に知恵を使った方がいい。
地球上に65億人からの人間がひしめいているというのは、どう考えても「勝つものが総取りする」よりは「乏しい資源をわかちあう」ことに知的リソースを投じる歴史的条件である。
そして、「乏しい資源をわかちあう」ための方法は生物学的には一つしか知られていない。
それは何度も申し上げている通り、種の「ニッチ化」である。
他の集団とそのふるまいができるだけ「かぶらない」ようにする。
「ガラパゴス化」とは、「ニッチ化」のひとつのかたちだと私は理解している。
私が英語の公用語化趨勢に対して深く懐疑的であるのは、それが「ニッチの壁」を破壊しかねないからである。
「日本では英語が通じない」という事実を多くの人は「恥ずべきこと」として語るけれど、それは短見というものである。
日本では英語が通じないという「言語障壁」によって、これまで国内市場は海外企業の進出を抑制してきた。
私の知る限りでも、日本の大学はこの言語障壁で危機をまぬかれたことがある。
覚えておられる方はもう少ないだろうが、1990年代に日本にアメリカの大学が一斉に進出してきたことがあった。
一時期は全国に数十校が展開したが、そのほとんどは数年を経ずして廃校となった。
それは教育プログラムが英語ベースだったからである。
学生たちは授業についてゆけずに、次々と脱落して、定員割れに至ったのである。
その後、ディプロマミル(学位工場)が東アジア一帯で修士博士の学位を商品として売りさばいて、各国の大学で大きな問題を引き起こしたが、日本では学位を金で買った教員は二桁にとどまった(論文を英語で書かなければいけない仕組みが「幸い」したのである)。
世界的なスケールの詐欺(学位や名誉メダルやクラブへの勧誘などなど)のDMは私のところにもよく来るけれど、英語の詐欺口上を読むのが面倒なので、そのままゴミ箱に棄ててしまう。
「日本では英語では商売ができない」ということで、市場開発にコストをかける気のないビジネスマンは他のもっと手間のかからない「狩り場」に獲物を探しに行ってしまう。
大森南朋くんがアメリカのM&A集団の尖兵として日本企業の買い叩きにやってくる『ハゲタカ』というドラマがあったけれど、ハゲタカ諸君は全員日本語話者であった。
それは逆から言えば、日本語話者であるマネージャーを育成する手間をかけないと、日本企業を買うという仕事そのものが始まらないほどに「ハゲタカ」ビジネス自体が、高コスト体質のプロジェクトだったということである。
そういうのを「言語障壁」というのである。
英語の公用語化に私が懐疑的なのは、それがこの言語障壁を解除してしまう可能性があるからである。
英語の公用語化は、海外からの求職者に雇用機会を開放するということとセットで行われる。
必ずそうなる。
これによって、日本の企業経営者は「就労条件を吊り上げ、労働条件を切り下げる」チャンスを手に入れる。
かつて男女雇用機会均等法によって、日本の資本主義企業は求職者の数を二倍にした。
それによってよりクオリティの高い労働力をより安価な労賃で働かせることが可能になった。
英語公用語化は第二の「男女雇用機会均等法」だと私は思っている。
その本質は「日本人・非日本人雇用機会均等法」である。
外形的には「政治的に正しい」ポリシーであり、このロジックに正面から反対することはむずかしい。
けれども、企業経営者たちは「政治的に正しい」からそのような雇用戦略を採用するわけではない。
端的にその方が儲かるからそうするだけである。
雇用機会の拡大によって就労競争が激化し、就労者の質が上がり、一方で労働条件の切り下げが可能になる。
だから経営者たちは英語公用語化に踏み切る。
「ガラパゴス」がどんどん開発されてゆく。
だが、孤島に固有の生物種が滅び、マクドナルドとセブンイレブンが並ぶ「ガラパゴス」などに私は住みたくない。
「開かれた国」であることのコスト
経済連携協定に基づいて来日し、今春看護師国家試験を受験したインドネシア人、フィリピン人の受験者254名の合格者は3名だった。
合格率1.2%。
不合格理由は日本語で試験が課せられているからである。
日本語話者は90%が合格する。
外国人看護師・介護士の受け容れがアジェンダにのぼったのは、小泉政権のときである。
日本製品の輸出促進のための関税撤廃を進める見返りとして、フィリピンのアロヨ大統領から要請されたことに端を発する。
日本製品を売りたいという日本側のニーズと、海外に雇用機会を拡大したいフィリピン側のニーズの「等価交換」から話は始まった。
仙谷由人官房長官は「開かれた国」という国際イメージの定着のためにも、自国語・英語による受験機会への拡大を提言している。
だが、厚労省は、医療介護の現場で言語的コミュニケーションは死活的に重要なので、日本語で試験を合格するという線は譲れないとして、これに抵抗している。
昨日に続いて「言語障壁」の話である。
この話も一筋縄ではゆかない。
商品・サービス・人間がボーダーレスに行き来する「グローバル化」に早急に対応しなければならないという内外からの圧力には応えなければならない。
だが、「グローバル化」によって得られる損失は、それがもたらす利益を超えることがある。
計量的な吟味が必要であると私は思う。
一時的な「ニーズ」によって大量の移民労働者を受け容れたヨーロッパ諸国はどこでも深刻な問題を抱え込んだ。
私たちが成功した民主主義のモデルのように見なしているデンマークでも何年か前にムハンマドの風刺画を掲載して、世界のイスラム教徒の逆鱗に触れた事件が起きた。
その背景には、イスラム系住民の急増と、それに反発するナショナリスト政党の対立がある。
デンマーク政府は苦肉の策として、難民や家族呼び寄せでデンマークにやってきた人々が母国に引き上げた場合に帰還手当として、10万クローネ(180万円)を支給する政策を立案した。それだけ払っても地方自治体のコストは大幅な削減されるという。
どこまで本気かわからないが、そのような奇策がまじめに議論されるほどにデンマークが「煮詰まっている」ことはたしかである。
これに類したことはスウェーデンでも、ドイツでも、フランスでも起きている。
安価な労働力を求めてボーダーを開放した後に、経済成長が鈍化すると、ホスト国家に政治的にも文化的にも一体感を持てぬままに、高齢化し、福祉予算に大きな負担をかけることになった移民たちが大量発生する。
そんなことが60年代から繰り返されている。
アメリカも例外ではない。
移民たちが建国した国であるにもかかわらず、先に定住した移民たちは後からやってきた移民に対して激しい差別を繰り返した。
移住してきた順に、最初はアイルランド系が、ついでイタリア系、東欧系、ユダヤ系、アジア系が排斥の対象となった。むろん先住民と黒人は一貫して差別されてきた。
アメリカにおける移民排斥がそれでも国民国家の解体的危機にまで至らなかったのは、「フロンティア」があったからである。
移入する人口を受け容れるだけの未開の荒野があったので、排斥された移民集団には「とりあえず西をめざす」というソリューションが残された。
外国人労働者の受け容れをスマートかつ人道的に行っている国を私は知らない。
もちろん、私が知らないだけでうまくやっている国もあるのかもしれない。
だが、それであれば、その国の成功事例を模すべきだとメディアや「政治的に正しい」知識人がすでに言い立てているはずである。
残念ながら、私はまだそのような事例について語られるのを聴いたことがない。
外国人労働者の受け容れをスマートかつ人道的に完遂した先行事例を私たちは知らない。
その事実を確認するところから、この問題についての議論は始めるべきだろう。
「政治的に正しいことだから」とか「とりあえず金になるから」とか「とりあえず人手が足りないから」というような理由でこの問題を片づけることはむずかしい。
私は日本が「開かれた国」になることには賛成である。
賛成であるというより、それ以外に国際社会で生きてゆくことはできない。
けれども「開かれた国」であり、かつ住民たち誰にとっても「住みやすい国」であるためには、私たちが想像している以上の努力が必要だということは事前にアナウンスすべきだと思う。
私たちのうちの相当部分が「成熟した公民」になる以外に、その要件を満たすことはできない。
「成熟した公民」とは、端的に言えば、「不快な隣人の存在に耐えられる人間」のことである。
自分と政治的意見が違い、経済的ポジションが違い、宗教が違い、言語が違い、価値観も美意識も違う隣人たちと、それでもにこやかに共生できるだけの度量をもつ人間のことである。
仮に隣人たちが利己的にふるまい、公共の福利を配慮しないようであっても、そのような隣人たちを歓待することが「公民の義務」であると思える人間のことである。
そのような公民が一定数必要である。
つねづね書いているように、「公民的成熟」に達した市民が全体の15%いれば、あとの85%が「自己利益しか求めない子ども」たちであっても、社会システムは機能すると私は思っている。
それくらいにゆるやかな制度設計でなければ、とても人間は生きて行けない。
だが、その15%という目標値を私たちの社会はすでに失っている。
概算で7%程度まですでに「公民度」は低下していると私は見ている。
この数値をとりあえず2桁に戻すことが国民的急務である。
すでに下がりつつある「公民度」を放置して、「障壁」を取り払うことは、前例を見る限り、「排外主義的極右勢力の急伸」以外の政治的未来をもたらさないであろう。
私はそのような政治状況の到来を喜ばない。
それゆえ、「開かれた国」であることのコストとベネフィットについての、リアルでクールな議論の必要を痛感するのである。